【小説】 蒼茫 後篇

 第四章
 廣川は同僚とともに敵国からの侵入者を排除するために戦っている。戦地に向かうまで毎日必死の思いで訓練に耐え抜き己の力を磨いてきた。同僚が戦地で亡くなっていく光景は悲しみや無力感に苛まれる。
 どれほど苦しみ抜いて訓練をしても銃弾を受けて仕舞えば終わりである。あれほど教官から教え込まれても理解が出来なかった死者への思いは嫌と思うほどに痛烈に実感する。
 悲しみ涙ぐんでも消えることがない痛みは一生残り続ける。この気持ちは誰もが経験すれば戦争は無くなるだろうか。
 銃撃音が鳴り響く、同僚の叫びが耳元に聞こえてくる。
 「おい、廣川早く逃げろ! ここはもう敵から特定されている。別の場所に移動して再び作戦を練るそうだ」
 廣川は起き上がり、別の場所に移動する。
 同僚は廣川とともに走りながら話し続けた。
 「誰がこんな戦争を引き起こしたんだ。何故、俺がこんな戦地で戦わなければいけないのか。俺はこんな世の中が憎い。絶対に戦争を引き起こした連中に報復する。お前はこの戦争で何を感じる」
 「俺はこの戦争で大切な同僚を亡くした。もう二度と失いたくない。誰もが平和な日々を過ごせるようにしたい」
 「お前は平和主義だな。だから味方を失う。まずは相手を倒すことに集中する。例えばこの戦局であれば、俺はこの建物を囮にして敵を誘い込み、建物ごと爆破するのが手だと思うがな。それであれば多少の人的被害で相手の戦力を削ることができる」
 「人的被害とはどういうことだ? まさか怪我を負った仲間を残して相手を惹きつけるのか?」
 同僚は何の問題があるのかと負傷者を見捨てるような軽蔑の目で首を縦に振る。
 「鍵野ふざけるな! 負傷者を不良品のように扱うな」
 「おいおい。この戦局でもまだそんな甘い考えなのか。ここは生きるか死ぬしか選択はない。そんな皆で生きて帰りましょうなんて甘ったれた考えはここでは通用しない」
 潜伏していた建物は敵軍の爆撃により跡形のなく破壊された。戦地に送られてから安心する瞬間がなく死と隣り合わせの緊張感に意識が朦朧となり、移動先の建物で気を失った。

 廣川は目を開く。悪夢から覚めたように汗をかいていることに気づき、深呼吸をしてから横を見る。樋口はまだ寝ている。もう一度、眠ろうと目を閉じるが、眠れる気がしないので、テントから出て朝日が昇るまで地平線をじっと眺めていた。地平線から陽が昇ってくる。
 廣川は振り返ると樋口が立っている。
 「目的地には今日中に着くだろう」
 「でも、着いたらどうしたらいいの。私は反逆罪でまた牢屋に入れられる?」
 「牢屋に入れられる可能性はない。自分達が知りたい事は君を牢屋に入れる事ではなく、新薬が盗まれた事と暴力事件の原因を知りたいから。しかも情報を手に入れるために暴力は使わないのが我々の信条だから、君に危害は加えない。これだけは信じてもらいたい」
 荷物の支度後、二人は目的地に向けて歩き出した。

 白を基調とした奥行きのある会議室にて報告会が行われている。
 監獄からの報告によりますと「彼らは監獄から逃れ、ある計画を実行するとのことです。今頃、車に乗り込み、次なる目的地に向かっていると思われます。計画につきまして監獄の警備員からは囚人が重要な鍵を握っていると言っていました。また監獄の近くには小屋がいくつも建っており、その中の一棟に地下に通じる梯子があり、人が住めるような住居環境がありました。おそらくそこで彼らは休憩を取り、別の場所に向かったと思われます。囚人につきまして数年前に化学薬品を製造する製薬会社にエンジニアとして勤務しており、ひと月程前に試験中の化学薬品を盗んだとして逮捕され、監獄に収容されていました。しかし、彼女は化学薬品については知らず、真相は未だに謎のままです。その他に男が乗っていた車を調べたところ、車内には何もなく、目撃証言では三日前に南方のホテルに宿泊していたと報告があります。引き続き、彼らの動向を探っていきます。報告は以上になります」
 「一つ質問を良いかな。最後に彼らの足取りがあった小屋には足跡以外に車輪等の痕はありましたか」
 「いえ、ございませんでした。足跡だけであります」
 「ということはその場からそれほど遠くではありません。女は監獄で1ヶ月程捕捉されて身体は衰弱して一日に歩ける距離は成人女性の半分以下となります。見つからないのではあれば、まだ舗装されていない道も調べてみる方がいいかも知れません。逃走者は小屋に地下シェルターがある事を知っていて逃げており、計画された犯行です。当然、監獄近くの森林も熟知しているでしょう。まだ舗装されていない道を知っていてそこから逃げている可能性があります。急がないと車や仲間を準備している場所に着かれてさらに困難になります」
 「承知しました。直ちに現場の者に連絡します。助言頂き、ありがとうございます。それでは失礼致します」と報告者は会議室から出て行った。
 鍵野は椅子から立ち上がり、その場から出ようとすると、山﨑が話しかけてきた。
 「君の助言が上手く行くと良いですな。逃走者とは昔、一緒だったから行動が読めるのではないか。それとあの化学薬品については進捗はどうなっている。もうそろそろ使えるのか」
 「上手く行くと思います。彼は私と同じところがありますので、行動パターンはある程度は読めます。必ず居場所を見つけ出します。化学薬品はもうある人に実験しています。試作段階で効果が出るまでに時間がかかりますがそろそろ効果が出てくると思います」
 「君はやはり残酷な所があるな」
 「私は残酷ではなく知的好奇心に溢れているだけです。確固たる信念、考えがある人間が壊れていくところが興味深いです」

 第五章
 密林を抜けると広大な平原が二人の目の前に現れた。遠くから見ても分かるくらい白く高い壁が城を取り囲む。
 「あの城に俺の仲間がいる。あそこに行けば、何か分かるかもしれない。もう少しだ、体調は大丈夫か?」
 「寝たから、大丈夫。ただ1ヶ月も運動せず、十分な栄養を取れなかったから、本来の状態まで回復するのに時間がかかるのが問題だわ」
 車が一台こちらに向かってくる。樋口は敵かもしれないと物陰に隠れようとするが、廣川の方はじっとその場に立っている。
 二人の前に車が止まると、車内から体格が対照的な男女二人が出てくる。男の方は筋肉質、スキンヘッドで長身、一方女の方は華奢で眼鏡をかけており樋口よりも背が低い。樋口は唖然としている。
 「お迎えに上がりました。ここからは平原で物陰がなく敵に見つかりやすく、あの城まで距離があるから昨日携帯で廣川さんより連絡頂き来ました。だから、さあ車に乗って下さい」と女が快活に話す。
 二人は言われるままに車に乗り込み、走り出した。
 スキンヘッドの男は運転席に、華奢な女は助手席、二人は後部座席に座っている。廣川の紹介によると助手席に座っているのは横関で運転手は若月だそうだ。
 「廣川さんはこれからどうするの。こんな美人さんを連れ出してどこかに旅行でもするんですか」と横関は冷やかす。樋口は恥ずかしくなる。
 「お前に何も言うことはない。黙って城に向かうんだ」と視線を窓の外に向ける。
 「もう冗談が通じないな。樋口さんはこれからどうするの。やっぱりあの製薬会社から盗まれた薬を探しに行くの」と言い、俯いている樋口に顔を向ける。
 「私は自分が何故、囚われたのかを知るために新薬を探したいのです。まだ私が思い出しているのは少ししかありませんが」と不安に満ちた声で話す。
 横関は樋口の手にそっと触れる。樋口は俯いた顔を上げて横関の顔を見る。
 「今のところ分かっている事は、あなた達を追っている組織があの製薬会社と裏で手を結んでいるというゲリラ団体だっていう事で、その団体はかつて仲間だった鍵野がいるらしいよ。しかもそいつが薬の開発と実験の総指揮をしているらしいよ。面白い話でしょ」
 「その話は彼女から聞いた」
 「すみません。横関さん。あと、もうひとつあるのですが、ここ最近起こっている暴力事件の原因はどうでしょうか?」と樋口が言う。
 「その件は、まだ分からない。推測だけど、薬が影響があると思う。薬が開発され出されたくらいから事件が起こっているから、もしかしたら人体実験として先ずは子供に始めている可能性がある。効能は一時的な興奮状態で負の感情を倍増させるのかもしれない」
 「もう質問は大丈夫でしょうか。何でも聞いて下さいな。情報屋ですから、何なら仲間の情報なんかでもいいですよ」と廣川の方をチラッと見ると、彼は舌打ちをする。
 樋口はもうひとつ聞きたいことがあったが、廣川がいるところでは聞きにくい為、あとで聞こうと決めた。
 その後は、横関に質問責めに遭い、樋口が困惑する間に車は城に着いた。

 門の前には護衛が二人おり、許可証を出すことなく、中に入らせてくれた。門を通り過ぎると、車を止め、若月を除く三人が車を降りる。車はそのまま停車場に向かって走り出した。
 城の外観は壮麗であるが、城内は質素な作りである。
 樋口が内装を眺めていると奥から両脇に二人の男女を従えた高貴な男性が現れた。
 廣川と横関が礼儀正しく挨拶をする。その姿を見て急いで樋口も挨拶をする。
 「その方があの時に言っていた方ですね」と男は二人に語りかけ、廣川は頷くと樋口の方へ語りかける。
 「貴女の事は彼の方から聞いております。大変なことになりましたね。しかしもう大丈夫ですからお身体を休めて下さい」
 暖かい語り口に緊張していた体が解かれていく感じがした。
 「これからはどうするのですか。やはり真相を突き止めるために旅をするのですか」
 「そうです。これからは自分を知るための旅に出ようと思います。私がどういう理由で捕まったのかを知りたいのです」
 「分かりました。では、ここまで連れてきた方を使って下さい。私たちは個人が抱える問題を個人だけでなく、仲間で解決してきました。ここにいる方はみなさん助け合って問題を乗り越えた人物達です。どうぞ頼って下さい」
 樋口は今まで感じてきたことがない程の人間の暖かみや優しさに触れ、泣き出した。
 「私は開発データが盗まれたのは、鍵野の仕業だと考えております。なので、これから鍵野のところに行き、真相を確かめて参ります」と廣川は言う。
 「であれば彼女の体力が回復したら旅立ちなさい」
 廣川は承諾するとその場から立ち去る。それに続くように樋口と横関も出て行く。
 「虹花ちゃんはこれからここのメンバーだから、これからもよろしく。城内は広いから私が案内するわ」と横関は言いながら、背中に優しく触れる。樋口は涙を拭い、ついて行く。
 案内が終わり、横関と夕食を取り、彼女と別れ、樋口は彼女専用に与えられた部屋に入る。シャワー等の就寝の準備を済ませ、ベットに入り、目蓋を閉じる。勢い良くコップに注がれた水が何もなかった器に一杯になり溢れたようなそんな気持ちを抱いた。
 翌日、樋口は昼近くに目覚め、場内の広場に向かった。
 広場には一人で佇む廣川を見つけ、声をかける。
 「何をしているのですか?」
 「部屋だと落ち着かないから外で気分転換している。体調は大丈夫か?」
 「体調は徐々に回復しています。もう少し休めば復帰できます」
 「そうか。それはよかった」
 二人は近くのベンチに座り、しばらく風景を見ている。樋口は沈黙していた空間を押し切るように話を切り出す。
 「ずっと聞こうと思っていたんですけど、廣川さんと鍵野さんはどういった関係なのでしょうか?」
 「鍵野とは昔、自衛隊として一緒に働いていた同期なだけ」
 「実際に戦地に行ったりとかはしたんですか?」
 「一度だけ海外派遣として行ったことがある。戦場は悲惨だった。人間のエゴや醜い部分が見えてくる。力の無い者は見捨てられ置いていかれる」
 「どうして自衛隊に入ろうと思ったのですか?」
 「何か人の手助けする人間になりたいと思ったからかな。子供の頃に東北に住んでいた時に震災が起きて生活が一変して家族は私以外は行方不明で家は流され、何も希望を生み出させなかった時に再び生活ができるように自衛隊の方が尽力している姿に人のために役立てる人間になれば希望を見出せるかも知れない。そう思ったから」
 「私も中学生の頃に虐めを受けて、不登校になった時に自己嫌悪になり何も希望はなかったけど、家に引きこもってネットを閲覧しているうちに自分でもプログラミングを学び始めて何か生きる糧ができたような気がしていつかはプログラミングを人助けに活用したいという気持ちが出てきて、ようやく希望を見出せることができた」
 「君も同じ境遇なんだな。人間は一人では生きていけない。誰かと寄り添い、または受け入れることが必要なんだ。俺はこれから鍵野に会い、人々が助け合い、受け入れるしか世の中が変わることがないことを伝えなければならない。あの惨劇を繰り返さないようにするために」
 「あの惨劇とはどのことなのでしょうか? 教えていただけますでしょうか?」
 「戦地で仲間や少女を救えなかったこと。一人の子供も救えないことに憤りとやるせなさを感じて私は自衛隊を辞めたんだ。人を救う資格がないことに気づいてそれからは自衛隊の経験を活かしてこの団体を入団したんだ。しかし、あの少女を救うことができない経験から人間として役立てる人になれていない自分に恥ずかしさを感じて正直、この団体に心から仲間だという気持ちが持てない。自分の中で一人で生きている感じがする。だから鍵野と決着を付けて、心から仲間であると実感したい」
 廣川はベンチから立ち上がり、建物に入っていく。樋口は彼について行かずにベンチに座って空を見上げる。

 旅立つ頃は雨が降っており、天気予報では一日中降るらしい。廣川、横関、樋口は準備された車に乗り込む。運転は廣川がすることになった。悪天候で泥道になった道を走行する。
 樋口は横関は体調は元通りになり、迷惑をかけたことに謝罪している。横関はそんな彼女に安堵の笑みを浮かべる。
 「休んでいる間に鍵野の居場所を思い出して、確か職員が牢獄の最下層に鍵野の研究室があると聞いたことがある」と樋口が言う。
 「そうか、あそこであれば人体実験の資料を集めやすいし、情報も隠蔽することができるな。しかし、もう一度あそこに戻るのは危険だな」と眉をしかめながら廣川がいう。
 「私、牢獄の裏扉を知ってるよ。裏扉のセキュリティ解除も知っているからそこから入ろう。あそこからなら人目を避けて入れるはず」
 牢獄に着き、廣川は護身用にナイフを腰に着け拳銃を持つ。牢獄の正面には数人の護衛兵がいる。横関によりロックを解除すると、中に侵入する。
 地下に降りると前に来ていた時より薄暗く、人の気配を感じることがなかった。樋口の案内により、最下層へと降りるエレベーターを発見して、横関によりセキュリティーを解除して乗り込む。廣川はあまりにもすんなりと進んでいることに鍵野からの罠かもしれないと悪寒を感じる。
 最下層に着き、扉を開けると、白い壁と中央にテーブルと椅子が置かれている部屋であった。入るとすぐに暗転になり、後ろで叫び声が聞こえる。廣川は彼の罠に嵌ったことに気付いた。
 部屋が明るくなると目の前には鍵野がおり、後ろを振り向くと、護衛兵に囚われた樋口と横関がいる。
 「再び会えて嬉しいよ。あれから何年経ったかな。君が軍から抜け出してから。こんな形で再会するなんて奇遇ですね」
 「ああ、君とはいつかもう一度話し合ってみたくて来たんだよ」
 「そうかい、それは嬉しいね。で、どのような内容なのだろうか。是非聞かせて頂きたいな」
 「お前だろ、新薬を盗み出し、樋口に濡れ衣を着せたのは」
 「それは違うな。新薬は元々は私が開発を依頼していたのだから、最初から私のものだよ、だから盗んだのではなく、持ち主に戻っただけだ」
 「では何故、樋口を犯人に仕立て上げたのか」
 「それは、君をここに誘き寄せるためだよ。彼女が捕まれば、必ず君が助け出し、そして私に会いにやってくると思ったから、そうすればわざわざこちらから会いに行かなくても必ず来ると。そして今、ここに来たじゃないか」
 「俺はお前の術中に嵌ったわけだな。では、何故、新薬を作ったのか。それは人の負の感情を増加する作用があると言われているが、どうしてそんなものを作った」
 「それは、この国をリセットするためだよ。人間には本能的に他人よりも勝りたい、他人を蹴落としても評価されたいと望んでいる生き物なのだよ。または悪の本質はアーレント曰く『ほとんどすべての哲学者は、悪とは単なる欠如であり、否定であり、規則からの例外であると考えてきたのです。プラトンにさかのぼる推論の最も危険で、最も顕著な誤謬は、「誰も意志して悪を為す人はいない」という命題が、暗黙のうちにその結論として「すべての人は善を為すことを望む」を含んでいると考えることです。しかし悲しいことに、善を為すとも悪を為すとも決めることのできない人間が、最大の悪を為すのです。』と説いている。要するに思考停止が悪を招くのだよ。なので一時的に負の感情を増加させ、戦争でもやって私に代わって国を牛耳る連中を抹殺してくれるのが本望であり、より良い世界を構築するために薬を作ったのだよ。そしてこの薬は儀式を行うためでもある。かつては人間や動物に流れる血は宗教的な儀式のために使われていた。例えばヘブライ寺院の僧たちは礼拝式の一部として、殺した動物の血をまいた。アステカの僧たちは、生贄のまだ動いている心臓を神々に捧げたように国をリセットする儀式には大切な素材なのだよ」
 「それは突き詰めると感情論だ。人間の生命を軽くみているよ。俺は戦地で泣いている少女を見た時に自ら恥じたよ。何をやっているのかと。それから軍を抜け出し、恥のない人生を送りたいと各地を放浪してから横関らがいる団体に拾われてここに到るよ」
 「あれは滑稽だったな。一人の少女が泣きながら爆発に巻き込まれた母親を助けるために軍人に歯向かってきたが、射殺された時は見ものだったな。そしてその団体ではどんな学んだのか、教えてくれないか」
 「そこでは『知性、理性、感情は、この生命自体の表面の部分であって、生命全体ではありません。知性や理性、感情はこの全体的生命を守り、そのより崇高な発現のために奉仕すべきものです。それが生命の尊厳を守り、尊厳性を現実化する道である』だと、だから鍵野がいう「暴力」は鍵野が持つ感情の一つでしかない。それは誰にも変えることも出来ない。だけど、その一個人の「暴力」という感情を人々まで害を齎し、影響することは間違っている。これを言っている俺の意見も一個人の信念または感情であり対立することは不可避であろう。けれども俺は君には意見では対立しているけれども心では通い、君のことを理解しよう、受け入れようと思っている。だからこれからは何度でも君に対話し、理解したいと思っている。これからは同じ悲劇を繰り返さないように手を取り合うしか方法はない」
 「信念か。では何故、非暴力者は暗殺されるか。ガンディーしかりキング牧師は暗殺されたではないか。これも一個人の信念だと。人間の信念ほど不確定なものはない」
 「人間の信念は不確定だよ。しかし、だからこそ生まれ変われる、いつでもやり直しができる。だから俺は君を救いたい」
 「分かり難いな。しかし、実に面白いな。お前のような人間がいる限りはこの世も捨てたものではないな。また会おう。今日は終わりだ。新薬は研究段階で完成にはまだ時間がかかる。この問題は解決しておきたい」
 鍵野の命令により捕縛されていた二人は保釈され、仲間のもとへ帰ることにした。
 予報とは異なり雨は止み、雲の隙間から太陽が覗いている。陽が沈み暗くなる中で、ヘッドライトは前方を照らしていく。
 「これから何度も鍵野と話すことになりそうだ。ようやく始まったよ」
 「何となくだけど、城にいる人は誰しも傷つき人の痛みが分かる人が集まっているのだと理解した。そしてこの先にどんなことが起こっても共に悩み苦しんでくれる仲間がいる。そう思うと、何故か勇気が湧いてくる」と樋口は言う。
 仲間のもとに帰ってくると、皆、三人のことを心配していたのか盛大な迎えがかえってきた。
 疲れ果て庭園のベンチに座り項垂れる廣川に樋口は安堵の表情を見せる。

                                      了

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