【映画感想】ナイトクローラー(2014)

ナイトクローラー

あらすじ:深夜、人気のない線路脇で金属フェンスを盗もうとする男、ルー。警備員の邪魔が入るが、逆に警備員を殴って気絶させ、腕時計を奪う。フェンスと腕時計をスクラップ工場に持ち込むが、どうせ盗品だろうと安く買い叩かれる。ルーは金が欲しい。仕事は何でも良い。工場の社長に雇ってくれと頼むが、けんもほろろに断られる。ルーが一体何を目的に、あるいは楽しみに人生を生きているのか、観ている側はさっぱりわからない。ただ、彼はテレビをザッピングするのは好きなようだ。ある夜、ルーは偶然交通事故の現場に居合わす。警官が大破した車から被害者を救出しているのを眺めていると、そこへ脇からカメラを抱えたパパラッチが駆け込んでくる。ルーは彼らの仕事ぶりを興味深く観察し、カメラマンに「その仕事は儲かるのか?」と聞く・・・

「タイトルと予告編で気になっていたけど、そういえば観ていなかった映画」のベスト5、は言い過ぎか・・・少なくともベスト10には入っていた映画。U-NEXTで発見して視聴しました。

私だけではなく大方の人が騙されたと思うのですが、この映画はごく普通の良識ある青年が、運命のめぐり合わせによりパパラッチという職業に就いてしまったがために、人格が著しく歪み、壊れていく映画・・・ではなく、最初から犯罪者の素質十分ないわゆるサイコパスな男が、その才能を闇の世界で遺憾なく発揮し、中古の(これまた盗品のバイクを売り飛ばして買った)カメラ1台からのし上がる、ロサンゼルスの立身出世物語なのでした。

だから最初は戸惑ったというか・・・主人公の行動原理に感情移入や共感がほぼできないので、観察するような気持ちで観始めることになります。主人公を演じるのはブロークバック・マウンテンであんなにも人情味あふれる優しい男を演じていたジェイク・ギレンホール。アメリカン・サイコのクリスチャン・ベイルの面影を感じました。いや、ルーは妄想に逃げたりしないか・・・。

パパラッチ稼業は肉体労働。ルーは貧しい青年を道案内のアシスタントに雇い、地元のテレビ局に映像を持ち込んで売り飛ばす。成果がほしい地元テレビ局のプロデューサーの信頼も勝ち取り、徐々に事業を拡大していく。撮る映像は過激であればあるほど、被写体に近ければ近いほどよい。人に通常備わっているはずの良心の呵責がもとから皆無のルーは、次々と過激な映像を撮り、世間も彼にそれを要求する・・・と、徐々にルーは法律をガンガン破ってエスカレートしていくわけです。

不思議なもので、冒頭からあんなに共感できなかったルーに対して、気がついたら「バレないようにやれよ!」「よし高く売れた、やった!」と、彼の過激な行動に対して一緒にハラハラしてる自分がいました。警察に目をつけられて、お咎めなしのセーフだったシーンで、一緒にやれやれと胸をなでおろしているという。もちろん理性では「こんな悪党早くとっ捕まっちまえ」と思っているのですが、人を出し抜く快感、とことん”合理的”であり続けることの快感、自分だけの正義を振りかざす快感、そういう普段とても人様にあけっぴろげにできないような、秘めた欲望を、ちくちくと刺激されてしまうんですね。ああ怖い映画。

ところで、もしこの映画が定石通りの「ごく普通の良識ある男」が職業選択を誤った結果、サイコパス堕ちする・・・という展開であったらどうだったのだろうか、と考えてみました。これではパパラッチ=サイコパス集団です。

でも難しいところで、今の時代、一子相伝の仕事とか先祖代々の家業でない限り、人にはある程度の職業選択の自由があります。ある職業を志望する時点で、志望する人の性質は、ある程度似通ってくるくるのかもしれません。と考えると、今回のルーのように、極端に振れきった天賦の才能の持ち主・・・ではなく、自覚なく悪意のあるタイプ、本気でパパラッチが社会正義だと思い込みながら冷酷無比に過激な映像を撮る人間・・・を主人公に据え、自分の中の悪意に目覚めさせていく、というプロットだったら、まぁどうかな。いち個人ではなく、大衆の象徴みたいなキャラクターになってしまって、薄めたフルーツポンチみたいな平凡な教育映画になってしまうのかな、やっぱり・・・などと視聴後にうだうだ考えたのでした。

(k)

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