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映画感想:1917〜命をかけた伝令〜

伝令映画、ではなく、塹壕映画

映画が始まって5分後、わあ、これが”塹壕”というやつか、と、本筋とは関係ないところで感動を覚えた事をまず記しておきたい。

この映画のために掘られた塹壕は1.2キロらしいが、実際に史実で掘られた塹壕は総延長700kmにも及んだという。気が遠くなる労働量だ。

とにかく”塹壕戦”は第一次世界大戦の代名詞であるし、ワンカット撮影は、観客に臨場感・没入感をもたらすためのみならず、塹壕戦を描くにあたって、最も適したやり方だったと思われる。

*例によってネタバレありです


冒頭、まだ年若い兵士たち2人が、草原に寝そべって休息をとっている。牧歌的なシーンだが、彼らは間もなく上官に呼ばれ、面倒くさそうに塹壕へと降りてゆく。カメラは彼らの視点の高さからほとんど揺るがず、彼らの歩む速度より速くなることも、遅くなることもない。そのうちに我々はこのカメラが、よくある戦争映画のように上空から俯瞰して、今彼らが全体のマップのどのあたりまで進んでいるかを示してくれる気が全くないこと、鉄条網の向こう側の敵陣の様子を探ってくれる様子もまるでないことがわかってくる。

レーダーもない、通信機もない。偵察機もろくに飛んでいないし、報告があがってくるまでに時間がかかる。塹壕から頭を出せば銃弾が飛んでくるかもしれない。彼らも私たちも、数メートル先の状況すらわからない。でも前に進まなければならない。意を決して塹壕から飛び出す瞬間、主人公たちと一体になった私たちは、得も知れぬ開放感を味わう。この瞬間に、弾丸に当たって死んだって構わないのではないかとすら錯覚する。きっと、すさまじい量のアドレナリンが放出されている。

塹壕の外に出ることに成功し、いっときの開放感を味わったとしても、すぐに状況は変わらないと悟る。緩衝地帯を抜け、ドイツ軍側の陣地に潜入した後も、牧歌的な緑の地平線の向こう側からいつ何時戦車の陰が現れるかわからない。中盤、主人公たちの片割れが、負傷したドイツ兵を助けようとして逆に刺されて死亡してしまう。彼が死んだ直後、背後から「どうした、大丈夫か?」と声がする。振り返ると、数人の味方のイギリス兵が立っている。すぐ近くまで、味方の小隊が来ていたのだ。彼らは気づかなかった。二人きりで、最前線に向かっていた。しかし、生き残った主人公は恨み言を吐いたりしない。誰もが先の見えない状況にいるということが彼にはわかっていた。

第一次世界大戦

派手なドンパチである第二次世界大戦の陰に隠れがちなこの戦争に、私は以前から個人的に興味を抱いていた。何年も前のことで、もう名前は忘れてしまったが、たまたま読んだ何かの書物に以下のような事が書いてあった。

曰く、第一次世界大戦の”塹壕戦”はとにかく労働力の戦いだった。前線は点ではなく「線」なので、塹壕でそのラインを作らなければならない。穴を掘り進めるにはできるだけ多くの労働力を戦場につぎ込むことが必要で、そのため民間人から行われる徴兵の垣根が下がった。そのムードが構築されたのちに第二次世界大戦が勃発したために、第二次世界大戦であれほど多くの犠牲者が出た、というものだ。第二次世界大戦時には、世界ではもう十分航空機技術が発達していたため、戦略上の優位性が損なわれた塹壕というスタイルは消滅した。しかし、徴兵のシステムだけは残ってしまったのだ。

もう一つ、第一次世界大戦にあって第二次世界大戦でなくなってしまったと思しきものを、この映画は描いているように思えた。それは上官と末端の兵士の距離感の近さだ。

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戦後生まれの私がこの目で見たわけではないが、例えば水木しげるの描いた漫画などで示されるように、第二次世界大戦で上官とされる人物の振る舞いは、まるで赤ん坊の頃から産着ではなく軍服を着ていたかのように職業軍人らしく類型化されている。もちろん、それは彼が徴兵されてから後天的に身につけたと思われるが、つまり彼らが手本にすべき「軍人」のプロトタイプがこの頃にはすでに出来上がっていたと思われる。

第一次世界大戦だけではなく、南北戦争もそうだろうが、その当時はまだ人々が戦争にも軍隊にも慣れておらず、目指すべきプロトタイプの軍人像などなかったのではないかと思う。ゆえに、自分たちのやり方で、兵士という役割をこなさなければならなかったはずだ。

本作で描かれる塹壕戦は、泥臭い。最も上の立場の人間こそ戦場から遠く離れた場所にいるが、そうでない連中は皆文字通り、同じ穴の狢だ。この映画には、話しかけられただけで「どこの隊だ!身分は!目的は!」と銃剣で脅しつける鬼軍曹はいない。皆、相手には隣人として、最低限の敬意を払って接しているように思える。人間が手探りで戦争をやっていた時代の空気が描かれていると思った。

後の時代に生まれた私の、身勝手なセンチメンタルかもしれないが。

美しい戦場

ところで手法としての長回しとはまた別の、映像としての見どころで、映画の中盤に、象徴的な夜のシーンがある。これも見た方ならおわかりだと思うが、廃墟を照明弾の閃光が照らす中、主人公が壁から壁へと駆け抜ける場面だ。ふらふらと頼りのない軌道で打ち上がる本物の照明弾のみの明かりで撮られたこのシーンは、白と黒のコントラストが美しく、まるでここだけ切り取って芸術映画として上演できそうな程の幽玄さと、凄みがある。

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子供の頃、湾岸戦争勃発のニュース映像に、青白い火の玉が飛び交う様子が映し出されたとき、私は花火のようできれいだと感じた。無論、その下で何人もの人が死んでいる事は頭では理解していた。人間が「戦争はよくない」と感じることが表の、正しい面だとしたら、「戦場は美しい」と感じる感覚は、間違った裏の面かもしれない。でも事実、そういうことだってあったに違いない。美しいと感じると同時に背徳感を覚える、良いシーンだった。

美しい場面は他にもある。主人公の二人が立ち寄る農場で、ドイツ軍に切り倒された桃の木の花が舞い散るシーン、滝壺に落ちた主人公が流れつく堤防にひっかかった川岸の木蓮?の花びらと青白い水死体の山。しかし、これらは自然から生じた美であり、瓦礫と照明弾の作り出した美とは、少し意味合いが異なる気がする。

音響

こちらの映画は音響が素晴らしかったことも書いておきたい。

私は同時期に「ミッドサマー」を観た。そのうえで比べて申し訳ないが、BGMや効果音の音量自体は、ホラー映画であるミッドサマーの方が断然大きいのだが、音の一つ一つが身体の部分部分を共鳴させてくるのは、1917だ。

爆弾はバリバリと破裂して、腹の底から響くようだし、銃弾の音はチュインチュインと頭の横を掠めていく。それこそ戦場のように、聞こえてくるシンプルな音の一つ一つに、気を抜けない。音の鋭さ、精度が段違いに怖い。

FPSっぽさ

最後に一つだけ、観劇中に残念だと思ったところがある。それは、主人公目線のカメラワークが、FPSじゃん、って思えてしまったところだ。(FPSとはFirst Person shooting gameの略で、一人称視点のシューティングゲームのことです)

もちろん全編そうだというわけではないが、カメラが主人公の背後に回ったときなどFPS画面そのもので、やり込んでいる人は、眼前に敵影が現れた瞬間思わず幻のコントローラーを押してしまったとしても不思議ではない。長回しの技術も、そういう視点で捉えると、より”ゲームっぽさ”を強調しているように思われる。

戦争映画をゲーム感覚で観るなど、制作側の期待する意図とは真逆の反応じゃないかと思って勝手に心配していたのだが、こちらのインタビューの最後あたりを読むと、監督はその辺も折り込み済だったようです。

ところで、こちらの記事で驚いたのが、途中で主人公の一人が死ぬシーンでみるみる顔色が青白くなっていく演技に、CG加工もメイクも使われていないという話。演技で、酔っ払っていないのに顔を真っ赤にするのは観たことがあるけど、青白くするってなんだ。どうやってるんだ。

長回しの手法は日本の映画監督でいうと溝口健二が採用していたが、用いた理由は、主に俳優の演技を止めたくなかったかららしい。それは確かに一理あり、今作のメイキング映像でも俳優自身が語っているが、長回しではセリフや段取りが多少間違っていても続けるしかなく、数分間続けて演技することで役に没入することができたという。

公開から日が経ち、上映館も徐々に少なくなっているようですが、音響の良さもあるので、ぜひ劇場で観てください。

(K)

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