人の気持ちを想像するは高度な技
人の気持ちを想像するのは難しい。
人の気持ちを分かっていなかった、理解しようとしていなかった、自分の気持ちばかりになりすぎて、人がその時何を考えているかということを想像することすらしていなかった。そんな反省から、自分に感情が動いたとき、周囲はどう感じたのだろうと少し想像してみる習慣をつけたいと思った。でもこれがとても難しい。人生の最後、これができる人になりたいな。最後、じゃ遅いか。
先週コロナになり苦しい5日間を過ごした。
発熱、頭痛、体の痛み、のどの痛み、鼻づまり。痛み止めを飲むと少しだけ効くので、薬を飲み数時間少し楽になり、そしてまた苦しみ、8時間後の次の薬まで、ひたすら我慢し、次の薬の時間まで必死に耐える。薬を飲んでも少しも楽にならない時もあり、それでも8時間後…とそれだけが唯一の救い。特に頭痛とのどの痛みは強烈だった。
それらの症状が収まったのが5日後、今は軽い頭痛と息苦しさ。そして!味覚臭覚がない!コロナの後遺症。地味に辛い。
さて、冒頭に書いた、他の人が置かれている状況やその時の感情を想像することにしたが、なかなかできないぞ。という話をした。
ここで私は気が付いてしまった。さも学んだ感をだしていたのに、やはりできていなかった自分。人が何を感じているかを考えた時、全くもって自分の生きてきた狭い範囲内での想像に小さく収まっていたと。
臭覚がない。味覚がない。と気が付いたのはコロナ4日目くらいだろうか。コロナ前に作った麦茶をコップに注ぎごくごくごく。麦茶を作っていたいたボトルが空になったので洗おうとしたら底がべっとりねっとりしていた。「腐っていた!」もう一度コップ側を嗅ぐも腐った匂いはしない。今度はコーヒーに豆乳を入れて飲んでいたが、これも最後べっとりねっとり。「腐っている!」と見た目で思う。しかし匂いも味も分からないのである。
それは今も継続中。トイレに入ろうが、道で車がアイドリングしながら工事してようが、たばこを吸っている人がいようが、匂わない。
すぐ直るだろうと思ってネットを検索すると2年以上匂わない人も、そして完全には回復しない人も!その人は電車で座った席の横に汚物があって、気が付かづ座っていたら白い目で見られたと書いてあった。全く他人ごとではない。今ならわたし全然座れちゃう。
そして何よりも、匂いがしないこの世界が…
つまらない
のである。
こんな想像をしたことがなかった。後遺症で味覚臭覚がなくなうとは聞いたことがあったが、「生活がつまらなくなる」なんてこれっぽっちも知らなかった。そして、私の周囲にも必ずやいたであろう、がっかりしていた人が。
自分が体験しないと、どう感じるのかは想像するのは難しい。
仮に元旦那さんが「臭覚がない」と言ったら、私は必ず、今自分が感じている気持ちより、もっともっと軽く。「それは辛いね」と言っていたと思う。「それで何か支障はあるの?」と言ってしまっていたかもしれない。そして言った後は「臭覚がない」と言われたことを忘れてしまった気がする。再度言われたら「でも…どうすることもできないし…」と思っただろう。
寄り添ってあげたい。それは旦那さんに限らず。理解してくれる人がいるということは、そこに心理的安全性を感じる。私はそうである。自分はそうして欲しいと、お得意のじぶんじぶんじぶん。そして相手に全くできていない。出来ていなかったことを反省したのに今も出来てないんだな。そんなことに気が付いてしまった臭覚異常の経験です。
当時の私は「旦那さんの臭覚異常を直るといいなと願うこと」「ネットで何か方法がないかを探すこと」が寄り添うことだと思っていた。でも違う。「臭覚ないと辛いんだね」「匂いどう?」「治ると信じてがんばろう」という相手の気持ちを察することなのだと思う。
仕事でもそう。仕事を急げ急げと無遠慮に押してくる人がいる。それに対しては「忙しいんだね」「追われているんだね」「サポートするから頑張って」と言えれば、目を吊り上げて鼻息荒かった人がほんの少しほっこりするやもしれない。
勝手に想像して、この人はこう思っているという決めつけも、対極にある絶対にやってはいけないこと。大きく左右に振れるのではなく、程よく人の気持ちに寄り添う。これをしっかりやっていきた。そしてそれを誰かがしてくれたらちゃんとお礼をいいたい!
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