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【エッセイ】写真について思うこと

 15年ほど前の出来事。
 札幌での大きなジャズフェスティバルの一環として開催されたコンサートに足を運んだ。
 当時の私は、以前からファンだったフォークシンガーで詩人の友部正人さんがジャズピアニストの板橋文夫さんと共演したライブを見たことをきっかけに、日本人ジャズミュージシャンのライブに頻繁に足を運んでいた時期だった。
 その日のライブにも、当時私が好きだったフリージャス系のミュージシャンが多数出演していた。
 演奏自体は、素晴らしかったと思う。
 「思う」と書いたのには理由がある。その日のライブを、私は心から楽しむことが出来なかった。
 当時頻繁に足を運んでいたジャズ喫茶でそのフェスティバルの話を聞いた時点で、違和感はあった。

 「札幌がジャズの街になる

というそのフェスのキャッチコピーは、すでに札幌市内にいくつもあったジャズ喫茶や地元在住のジャズミュージシャンのライブに足を運んでいた私にとっては、あまりに失礼なものに感じられてならなかった。
 さらに、そのフェスティバルのために大通公園に建てられたという特設テントは中に入れば音響が酷く、しかもそんな突貫工事で建てられたテントにもかかわらず会場に入るにはドレスコードが設定されていた。音楽フェスティバルでありながら音楽そのものよりも高級感の演出を優先する札幌市の姿勢は、昔話によくあるような「うわべだけ都会を気取って着飾っているものの、田舎丸出しのみっともない成金」のようで、地元民ながら恥ずかしく思った。

 そんなライブで、音響の酷さ以上に不快だったのが、オフィシャルカメラマンの態度だった。

 ライブが始まると、何人ものカメラマンがステージ前で写真を撮り始めた。
 屋外フェスのようなステージではない。ステージと観客席の距離は狭く、カメラマンが歩き回れば観客の視界を遮ることは明らかな会場だった。にもかかわらず、観客の視界を遮らないようにと配慮するカメラマンは、一人もいなかった。
 観客席の真ん前に仁王立ちで、演奏の緊張感を完全無視で、バシャバシャとシャッターを押し続ける者ばかり。


 2組目の出演者のステージの際、私の嫌悪感にとどめを刺す決定的な出来事が起きた。


 カメラマンの一人が、突如最前列に寝転がった。
 その男は、寝転がったままステージにカメラを向けていたが、その後、寝返りを打つように観客席側を向いた。
 と同時に、その手に合った大きなカメラのレンズを、私の隣に座っていた友人の足に向けたのだ。友人は私より若い女性で、その日はドレスコードに合わせ薄手のワンピースにパンプスという姿だった。


 盗撮だ。
 私は、座ったまま反射的に足をのばして男のカメラを蹴った。


 正確には、蹴ろうとした。パンツスーツを着用していた私にためらいはなかったが、私が「蹴った」つもりで振り上げた足は、カメラにも男にも当たらなかった。
 しかし、その男は驚いた表情で私の顔を見上げると、気まずそうにそそくさとステージ裏に逃げていった。
 それきり、彼がカメラを持ってステージ前に出てくる事は無かった。





 もしも、女性客の足を撮影しようとしていた、という認識が私の誤解で、隠し撮りの意図が無かったのなら、カメラマンは激昂しただろう。

 あるいは、ライブを楽しむ観客の足、というのも「記録」として必要なものだったとしたら。
 女性の足を撮影することを「猥褻」と思うその感覚こそが猥褻なのだと、カメラマン側から抗議されたなら。

 私は、芸術を理解出来ない者・その会場の観客としてふさわしくない存在として、その場でそのカメラマンやイベントスタッフにより、会場からつまみ出されていた筈である。

 しかし、そうはならなかった。

 今も思う。あの男は、「カメラマン」という立場を利用し、盗撮という犯罪行為をしようとしていたのだと。
 そして、そんな男は、バックステージパスを首から下げた、「公式な」カメラマンだった。




 多くのプロのカメラマンの方々が、被写体に対しても周囲の環境に対しても配慮した上で写真撮影されているであろうことは、重々承知している。
 しかし、上の例を挙げるまでもなく、そうではない者も存在する。
 まして、スマートフォンの普及により、今ではプロアマ問わず誰もがいつでも写真を撮ることが出来る。SNSの普及により、撮った写真を即座に公開することも出来る。
 被写体の許可など確認することも無く、気軽に。
 それは、怖いことだと思う。


 SNSやYouTubeによって、これまでどこかに属さなければ作品発表の場すら得られなかった多くのクリエイター達が自分自身で自由に作品を発表出来るようになった。
 このnoteも、そんな場のひとつと言えるだろう。
 権威や派閥といったものに媚びうる必要なしに、才能ある人の作品が世に出るのは、良いことだと思う。
 けれど、こと「写真」というものに関しては、あまりに気軽に撮れること・そして気軽に作品が公開できてしまうことに対して、それが本当に良いことなのだろうか?とも思う。


 誰かを責めたいのではない。
 むしろ、自戒を込めて、そう思う。

 アップする写真に、見ず知らずの人の顔は写っていないか。
 建物の写真であっても、それが公共のものなのか。許可なく撮影して良い場所なのか。


 公開することで、誰かを傷つけはしないか。


 あるいは、
 批判を受ける覚悟があるか。


 気軽過ぎる自己表現は、暴力と紙一重だと思う。




 明日から2泊3日で旅に出る。青森から岩手をまわって宮城に戻り、3月11日は夫の親族が亡くなった街で14時46分を迎える予定である。
 旅の間は、このnoteを含め、インターネットもテレビも極力見ずに過ごそうと思っている。

 3月11日にテレビもネットも見ないのは、ここ数年、私も夫も決めていることでもある。
 noteの連続投稿は200日を過ぎたところだが、noteよりも、自分自身で決めたことを大切にしたい。


 そして、旅の中で撮った写真も、今回はnoteに載せずにいようと思っている。


 「知って欲しい」
 「見て欲しい」

 そんなふうに感じる場所は、たくさんあるだろうけれど。



 私は、ここで生きる者でいようと思う。



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