見出し画像

ほぼ日の読者で良かった

 「ほぼ日刊イトイ新聞」というウェブサイトがある。

 なんて、私がもったいぶって書かずとも、多くの方々がそれこそほぼ毎日閲覧・愛読しているであろうサイト。

 私がこのサイトを知ったのは、確か2005年頃。当時、札幌のジャズミュージシャンと共演する機会が多く、そんな中で知り合った人から、当時連載されていた「はじめてのJAZZ。」が面白いよとすすめられたのがきっかけだった。


 子供の頃から父の影響でジャズが好きだったことや、小学生時代にNHKの「ばらえてぃ テレビファソラシド」という番組を見て以来タモリさんが好きだったこともあり、すすめられた連載記事はとても楽しく魅力的だった。


 ほぼ日を知るまでの私が糸井重里さんに抱いていたイメージは、著名なコピーライターであるとか多くの企画や書籍を生み出したクリエイターというよりも、むしろ子供の頃によく聴いていた歌の作詞をしていた人だった。
 そして、それ以上に「徳川埋蔵金」の人であり、なんと言っても「となりのトトロ」のサツキとメイのお父さんだった。
 糸井さんに対してあまりに失礼な認識だと思うけれど、恥ずかしながら、実際そうだったのだから仕方ない。

 そんな糸井重里さんの発する言葉や視線・視点の面白さに気づく事が出来たのも、ほぼ日を読むようになったおかげだった。


 ほぼ日は、毎日午前11時に更新される。昼休みにパソコンを開けば、そこには必ず新しい何かがある。
 毎日更新される糸井重里さんのエッセイのような「今日のダーリン」をはじめ、掲載されている記事はとても楽しくて、職場で昼休みにほぼ日をチェックするのは、私の日課になった。



 東日本大震災以降、糸井重里さんの、そしてほぼ日の

「できることをしよう」

という言葉は、その後の自分にとって、ある意味、道標になっている。

 出来ない事を嘆くより、出来る事を楽しくやる方がいい。
 そんなふうに思えたこと、そして早野龍五先生を知り、原子力や放射線量についての基本的な知識を学ぶことが出来たことは、自分にとって、とても大きな意味を持っていたと思う。

 そのおかげで、あの頃から今に至るまでずっと、東北の美味しいものをたくさん食べて、健康で幸せな日々を送っている。
 ありがたい。
 心から、そう思う。



 今年、宮城県気仙沼市の唐桑半島にある民宿「つなかん」のドキュメンタリー映画が公開された。


 ずっとほぼ日を読んでいた私にとっては、「カッパに惚れた牡蠣の一代さん」の物語。
 一方、石巻で生まれ育ち、ずっと宮城県在住の夫はほぼ日の読者ではないけれど、サンドのぼんやりーぬTVをはじめとした地元のテレビ番組などで、つなかんや一代さんのことはよく目にしていたという。

 仙台フォーラムでの公開初日、仕事を終えてから、夫婦で夜の部の上映を見に行った。

 いろんなことを思い出しながら泣くのをこらえつつ見ていたけれど、私の涙腺が決壊したのは、ご長女が亡くなりご主人と三女のご主人が行方不明になった船の事故の後、唐桑から外に出ることの無かった一代さんが、初めて東京でのほぼ日のイベント「生活のたのしみ展」に足を運んだ場面。
 正確には、生活のたのしみ展の会場で、一代さんがほぼ日スタッフのスガノさんと再会した場面だった。

 私が初めて唐桑という地名や一代さんのことを知ったあの連載の中で、やっさんの育てたホタテがどんなにもの凄く甘くて美味しいのかを伝えてくれていたのは、ほぼ日のスガノさんの、くりっくりに目を見開いた驚きの表情だった。
 美味しいものを紹介する特集記事でスガノさんの美味しそうな笑顔をたくさん見てきたけれど、その中でも、あのホタテを頬張ったスガノさんの表情は別格だった。
 ホタテの写真以上に、ホタテの美味しさが伝わってきた。


 そのスガノさんが、スクリーンの中で、一代さんに駆け寄って、号泣していた。

 もらい泣きというレベルをはるかに超えて、嗚咽と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになるくらい泣いた。
 上映が終わって隣を見たら、夫も目を真っ赤にしていた。



 2021年、私は生まれ育った北海道を離れて、宮城に移住した。
 移住後、上下水道の工事に携わるようになった私は、今年7月、初めて仙台市内の津波被災地での仕事を担当した。


 震災からの復興に少しでも携わる仕事がしたい。
 北海道にいた頃からずっと、そう思ってきた。

 けれど、実際に仕事として津波の被災地と向き合うことは、それまでの自分の認識の甘さや覚悟の欠如と向き合うことでもあった。
 知識や経験よりも、必要なのは精神力だ。そう痛感する場面が、たくさんあった。

 それでもなんとか工事を終えての竣工検査の際、私が作業服の中に着ていたのは、スコップ団のポロシャツだった。

 北海道で、ほぼ日を通してスコップ団の活動を応援していた自分が、震災から12年以上経った今、津波の被災地に水道を引く仕事に関わっている。

 胸がいっぱいになった。



 ほぼ日を見ていなくても、いつか夫と出会っていただろう。
 そして、夫と出会ったことで、いつか宮城県で暮らすようにはなっていたのだろう、とも思う。

 それでも

 無意識ではあっても、ほぼ日を通して、宮城県をはじめとする東北各地の素敵な人達や場所をずっと見てきたことは、移住を決断する際の要素になっていたような気がしている。

 何より、ほぼ日というウェブサイトを通して(直接には会ったことが無くても)出会うことの出来た、たくさんの人達の生き方や考えや言葉は、自分にとって大切な財産だ。

「できることをしよう」

 ここしばらく、その思いを忘れかけていたかもしれないなぁ、と、昨夜ふと思った。

 出来ないことにばかり目を向けて、悔やんだり落ち込んでいても、仕方ない。
 まして、出来ていない他の人を責めるのは、お門違い。

 自分自身が今、出来ることを。
 ちゃんと、手足を動かして。

 その思いを忘れずに、気持ちを切り替えて、これからも頑張ろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?