#43 RYU、また撮っちゃいなよ。〜現代アートの傑作、映画『ラッフルズホテル』〜
【43日目】夫が初めてシンガポールに連れてきてくれたとき、彼は駐在のちゅの字も出さなかった。きっと妻の様子を観察していたんだろう。村上龍の『ラッフルズホテル』で描かれた世界が、私のシンガポールのすべてだったピュアな時代。いま思えば愛しい。【本帰国まであと57日】
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涼を求めて駆け込んだ国立図書館のロビーで、何気なく手に取った、厚めのリーフレット。
その中に一枚の写真を発見して、卒倒しそうになった。
若き日の藤谷美和子と本木雅弘。
映画『ラッフルズホテル』(1989)のワンシーンである。
DVD化はおろか、存在そのものも葬り去られようとしている、幻の作品。
この二十数年、あらゆるツテをたどって頑張ったが、見ることは叶わなかった。
出所のあやしいレンタル落ちのビデオを5万円で買って、まともな映像と音が得られるのか?...
手立てを考えてはあきらめ、ほぼ完全に投げていた。
しかし、その幻を、シンガポールで見られるというのだ。なんという巡り合わせだろうか。震えた。
場所はシンガポール国立公文書館内のOldham Theatre。
映画『ラッフルズホテル』は、村上龍氏による同名の小説を原作にしたもので、村上氏が自らメガホンを取った。
(映画に詳しい方であれば、これでもうお察しであろう)
脚本は野沢尚氏で、原作とはストーリーが所々違っている。
しかし、実際に鑑賞して驚いたのは、映画のストーリーが脚本と違っていることだった(!)。
鑑賞後に調べたところ、野沢尚氏は以下のように述べている。
「僕は『その男、凶暴につき』と『ラッフルズホテル』という仕事で、両監督によって脚本をズタズタにされた。それでも前者の作品は何故か傑作になった。が、後者の作品は惨憺たるものだった。」(https://nozawahisashi.blog.ss-blog.jp/2009-06-16-1)。
実際、この映画はズタズタだった。
観客は我々夫婦を含めて30人もいなかったと思うけれど、内容をうっすらとでも理解出来た人は、私以外にいたんだろうか?
上映後、映写室の外に出た夫は、めずらしく「とにかくタバコが吸いたい」と、はっきり言った。
建物を出て、無言で坂を下り、やっと見つけたバス停脇のパブリック灰皿にとりつくようにして、立て続けに2本吸った。
「どうだった?」
「まったくわからない。何もわからない...何がどうなったのか、何を見たのかすらわからない...」
夫のこんな様子を初めて見た。
映画「ラッフルズホテル」が現代アートだとしたら、夫の脳内錯乱状態込みで作品が完成するというやつだろう。
かわいそうな我が夫。2人分のチケット代金を払って、2時間という時間を使って、大切な脳細胞の一部が危機に瀕しているのである。
しかし、長年追い求めていた幻をつかまえた私はハッピーだった。
ハッピーワイフ、ハッピーライフの大原則に照らし合わせれば、ちょっと見はかわいそうな夫も、実は超ハッピーなのだろう。
クソ暑かったブギスで、瀕死で駆け込んだ図書館。そこで偶然、手に取った冊子の中の藤谷美和子さん。
瀕死で彷徨う中、ジャングルの沼地に咲き乱れる蘭を見た、あの情けないカメラマンの恍惚と重なるというものだ。
村上龍氏のファンの中でも『ラッフルズホテル』のファンは少ないと思う。
初期の作品とはいえ、村上龍作品のオイシイところがない。暴力もエロスもなく、疾走感も爽快感もなんらかのカタルシスもない。
萌子という女優のミステリアスな雰囲気が、当時は謎の多かったシンガポールという国に建つ最高級ホテルという舞台装置によって増幅されている。
彼女の純粋がゆえの狂気、かつての恋人のカメラマンが感じている恐怖、それらが東南アジアの熱風に煽られて...若き日の私は、この小説の虜になった。
完全なる余談であるが、最初に夫が私をシンガポールに連れてきてくれたのは、駐在が決まる2年前で、ラッフルズホテルをとってくれた。
私は超絶大興奮し、憧れだったラッフルズホテルを隅々まで歩き回り、図書室の棚に「ラッフルズホテル」の単行本を勝手に陳列するという軽犯罪(?)までしでかしてきた。
しかも、自作ポエム付きである。
我ながら、超絶怒濤、空前絶後のイタいファンである。
ノーベル文学賞発表の日に、村上春樹の小説をむさぼり読む姿を全国のお茶の間にさらすハルキスト集団のみなさんよりもイタい。
そんなイタい状態で、シンガポールの街を歩き回ったが、萌子フィルターがかかってるから、目に映るすべてがすばらしく見えた。
夫はそんな私を観察しながら、駐在しても大丈夫だと判断したのであろうか。
たいした男である。
さて、映画の話に戻りたいが、前述の通り、この映画はほぼ全編にわたって著しく破綻していて、その内容を語ることは難しい。
ひとつだけ例を挙げるとすれば、シンガポールのどこかのプールサイドで、かつての恋人だったカメラマンが何かの撮影をしているところに、萌子が突然現れるシーンだ。
自分から逃げた恋人を探しに、何の手がかりもなくシンガポールにやってきた萌子。
「ドリアン運びをする」「漁師にでもなるだろう」というテキトーで軽薄な彼の言葉を信じて、市場や離島をやみくもに探し回る様子は、あまりにも純粋過ぎるがゆえに滑稽ですらあった。
しかし萌子はその後まもなく、何のヒントもなく、急に撮影現場に現れるのだ。
彼の周りには何人かの現地撮影スタッフがいて、皆が萌子の登場に気がつく。
その際、字幕には彼の台詞「彼女は友達だよ」がハッキリと出たのに、英語ではまったく違ったことを言っており、その台詞は無かったかのように物語が進んでいくのである。
ラストシーンは原作にも脚本にもない上、完全にシッチャカメッチャカ。
こんな映画をよくも世に出せたなと、バブル期の日本の異様さを肌で感じて震えるレベル。
桑田佳祐の主題歌「Blue 〜こんな夜には踊れない〜」も、映画にまったく合っていなく、最後の最後まで観客は置き去りプレイ。
実際には、置き去りにされたという感覚すら持てないので、我が夫のように震えながらタバコを吸うとか、何か収めどころを持っている人でないと、鑑賞後はしばらく辛いだろうと思う。
村上龍氏はこの映画の前にも何度かメガホンを取っていて、その度に酷評されてきたのだが、それでも次々に出資者が現れてきた。
バブル期の金の余った人の酔狂では片付けられない、何か魅力があるのだろう。
・・・この駄文を読んで、どれいっちょ見てやろうか、という勇者が現れるとも思えない。
しかし、シンガポールに暮らした経験のある方々ならば、約30年前のシンガポールの風景の中で見る、若き本木雅弘氏と藤谷美和子氏の美しい姿には、胸を突かれるだろう。
現在のシンガポールが手放してしまった古き良き風景を眺めるだけでいいんだと思う。いや、思いたい。
最後になるが、
「バブル期には、この映画に触発されて、ラッフルズホテルで結婚式を挙げる日本人カップルが殺到した」
という文章をどこかで読んだ。
申し訳ないが、絶対にウソだと思う。
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