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[小説] 『鱗』〜23話〜24話。香港の夜を灯すワインと桔梗の花。


        23話


 翌日は早めにチェックアウトを済ませ、ポルトガルの風情(ふぜい)を体全体で感じべく、朝食は屋台でお粥を食べようと、観光客の中に紛れていた。

 有名なエッグタルトも味わい、仮と言えども、リスボンの雰囲気を堪能し、お昼の船で戻ると、日航香港では騒動になっていた。

 ロビー全体が騒然とする中、理由は簡単、紛まぎれもないこの日本人二人の荷物の事だ。さんざっぱら世話になった挙句に、その上、昨晩は帰って来ないと言う失態に、ほとほと困っていて、事情を知らないスタッフの一人が、警察に通報してしまったと言うのだ。

 やがて、日本で言うところの事情聴取が始まるも、色々あった事情を説明すると、状況を把握し納得してくれたので、大ごとにはならずとも、重々しい雰囲気の中、300個の箱を前にして、一刻も早くホテルから、出すようにと。

 又々、ホテルにはお世話になる始末で、色々と調べて貰った結果、九龍島ある船会社に行き着き、全てお任せする事になり、運搬から梱包やら何だかんだで、40フィートの巨大コンテナで運ぶ事になり、吉野も啓介も、唖然として手も足も出なかった。

 『船荷証券』やら『保険証券』やら色々な書類を書き、恐らく横浜港に着くのは、一ヶ月先か二ヶ月先か判らないと言っていたが、いつになるやら。本当に着くのかどうなのか?結局輸送費の合計金額は、22000HKドルで決着し、日本円で凡そ37万円。

 高いのか安いのか、もう何の興味も無かった。吉野はマカオで勝った分で支払いを済ませると、啓介の顔を見るなり『ホッ』とした表情に、体の力が完全に抜け落ち、大騒動も、本当に色々な人達のお陰で乗り切る事ができ、いくら感謝しても足らないだろう。

 啓介は落ち着き払った口調の中、ニヤニヤしながら少し調子こいた感じに聞こえた。

「吉野さん、最後の夜にちょっと奮発しませんか」

「啓介の奢り?」

「当たり前じゃ無いですか!」

「よし行こう!」

 そう言いながら出掛けようとしていた先は、香港でも屈指のホテルリージェントの、メインダイニングの『プリュム』だ。

 大騒ぎの後なので、若干心苦しいと思いながらも、日航香港から予約をお願いすると、ジャケットが必須と言ので、慌てて近くの洋服屋に飛び込み、適当なジャケットを羽織と、鏡に映るその姿、特に啓介は全く似合っていなかった。

『まー、良いじゃない似合ってるよ!』

 気分的には香港映画のスター、チョウ・ユンファだ。

 そして意気揚々と、香港の光輝く夜景の中に潮の湿気を感じながら、二人は海沿いを歩き、リージェントに向かっていた。

 一歩足を踏み入れた瞬間に、その質の違いに正直圧倒された。失礼な話、泊まっているホテルはホテルで素晴らしいのだが、リージェントは一味も二味も違う、特別な世界と言っても過言では無いだろう。

 そして、ついに『プリュム』の扉を開け、周りを見回すと、様々なお国の言葉と表情が薄暗い店内でも判るしかし啓介のポケットには、そんな事を一蹴(いっしゅう)してしまう破壊力抜群の、飛び道具がある。そう、無問題(モウマンタイ)なのだ。

「どうするの?啓介?」

「フレンチに特別、飢えている訳でも無いですし、コースでいいんじゃ無いですかね、足らなかったら別で貰えばいいし」

「吉野さん、何かあります?」

「良いよ良いよ!、そうしよう!」

「ワインはとにかく行っちゃいましょう!」

 ギャルソンにその旨を伝えるとソムリエが、ニコニコしながらワインリストを手にし、一通り選び決まると、大丈夫?的な笑顔を浮かべてテーブルを後にした。

 吉野は啓介に囁ささやく様な声で、口元に手を翳かざした。

「どんな感じなの?」

「それなりに行っちゃいました」

「マジで?」

「はい!」

「マジです、ヤバイです!!!」

 ソムリエが名刺を差し出しながら、名前を告げると『サムです!』と、自己紹介をすると、良かったらセラーを見ないかと言うのだ。

 オーダーしたワインがそうさせたのか、相当自信があるのだろう。言われるままに席を立つと、少し離れた場所にセラーはあり、初めて見るワインは垂涎の的、見ると第二次世界大戦や、ベトナム戦争で活躍したような、ロケット砲の様なマグナムやトリプルマグナムのDRCが、床一面に、転がっている。

 その尋常では無い光景に、慄(おののき)ながらも『この世にこんなワインがあったのか……』と、はっきり言って興奮していたのは事実で、香港に来て本当に良かったし、こんな機会を与えてくれた吉野にも感謝していた。

 一通りコースも食べ終わった所で、サムが何やらワゴンを押して我々のテーブルにやって来ると、ワゴンには色々なビンテージのお酒が、重なり合う様に並んでいる。

 100年以上前のアルマニャックやマールに始まり、古いラムも数多く南米の風を感じさせ、ラムの脇を守るシークレットサービスのように、キューバの葉巻も数多く並ぶ。

 その中の一本を、是非とも開けて欲しいと、並々ならぬ表情のサム。

 それは、1853年のカルバドスで、一杯300HKドルと言うのだ。サクッと弾くと吃驚仰天(びっくりぎょうてん)で、日本円で高々5000円のカルバドス。

 ここは天下のリージェントのプリュムだ、そんな筈は無いだろうと伺うも、今一度、値段を聞き返すと、ウインクしてうなずいた。

「ウチの方が絶対高いよな!」

「間違い無いですね!、普通に1杯1万ですよ!」

 啓介は軽く頷きサムに視線を送ると、見た目完全に朽ち果てた様な瓶、ラベルも剥げ落ち、ブッションと蝋(ろう)は歴史の埃ほこりで埋もれ、サムはブッションが途中でお釈迦にならない様に、丁寧に開封し始めていた。

 1853年のカルバドス。芳醇な香りが鼻から大脳皮質辺りに到達すると、たちまち口に広がる。仄かに甘い味覚の嵐が吹き荒れ、狂乱の歴史を感じ取る事が出来たのかも知れない。

 わざわざノルマンディーの片田舎から、流れ流れて香港に辿り着き、訳の判らぬ日本人が飲んでいるのだ。

 135年前と言えば、ペリーが黒船で下田に来航した頃の話だ。何とも激しい歴史の最中(さなか)に作られ、林檎本来の持つ濃密な甘味を歴史の中に閉じ込めた、そんな美酒に改めて乾杯をしていた。

 上質なテーブル・クロスの上、この上ない優雅な時間を照らす蝋燭のあかり、二人を祝福しているかの様でもあり、それは香港の宝石箱よりも美しいかも知れず、啓介はそのテンポに合わせる様に、ゆっくりと話し始めた、それはまるで内緒話の様に。

『こそこそ、ヒソヒソ』

「吉野さん、モルト無事に届くと良いですよね。マジで、結構売れると思うんですよ……」

「そうだよなー、マジで頼むよ!」

「着かなくて、保険が降りても、どうしようもないですからね」

「そうなんだよ、買えないからなー」

「さっき計算したんですよ」

「何を?」


「一杯8000円で売れると思うんですよ、絶対に!」

 売る自信があったからの言葉だったのかも知れないし、強い意志の裏返しなのだ。

「試飲分を差し引いても、軽く20杯は取れると思うんですよ」

 続けざまに啓介は話した。

「えーと20×8000×300でざっと4800万なんですよ!!!」

 200万で買った酒が、4800万になるのだ。


『吉野は、酔って潤んだ瞳の中で呟いた、素敵!』

「そうだ!吉野さん、店の棚あるじゃないですか?」

「棚?何処の棚?」

「正面ですよ!、引き戸の隣」

「あのモルトのボトルを少し整理したら、真ん中のスペースが空くじゃないですか!」

「そうねー、判るよ、あそこね!」

「さっき見た木蓮で思ったんですけど、あそこに一輪、花を活けたらどうですかね?」

「ふーん、良いよ、カッコ良くなるんだったら、任せるよ!、どんな感じなの?」

「そうですねー、大ぶりのぐい飲みかなー、その中に3センチ位の剣山ですかね」

「四角い皿とぐい飲み!備前焼で行きましょうよ!、実は花詳しいんですよ」

「学生時代、少しだけ羽田にある花の市場でバイトした事があって」

「へー、そうなんだ、啓介が真顔で花の事を喋ると、受けっかもな———」


 側(はた)から見たならば、二人を取り囲む雰囲気は、完全に『ゲイの人』に思われていたに違いないだろう。

 怒涛の二日間を振り返りながら、最後の夜をグラスの中に回し入れると、香港時間の針は丁度22時を指していた。

 優美な空間は窓の外にまで拡張を見せ、英国の統治下に置かれた翻弄されし香港の地で、深秘(じんぴ)に広がる鳥木(うぼく)の空に薄汚れた靄(もや)が掛かると、100万ドルでは無く1000万ドルの夜景が広がり、同時に吉野と啓介の未来を照らしていたに違いない。

 すると、乾いた空間に細くも屈強な芯を感じる様な、音圧とでも言うのか、張り詰めたピアノの音色が、広いフロアー全体に響き渡っていた。

 最後の夜には抜群な演出と勝手に思い耳を澄ますと、そこにヴァイオリンが一人加わると、枯れた箱のふくよかな音色と共に、生演奏が始まり、何曲かこなした後にフワッと流れて来た曲、そう日本人なら良く知っているメロディが聴こえて来たのだ。

 多分、何処かの日本人がリクエストをしたのだろうと、何かリクエストがあればとサムが置いた紙とペン、それにしても『リージェント』の『プリュム』で、『北国の春』はどうなのよと?『ダサいでしょ!』啓介は、心の中で呟いていた。

『北国の春』が悪いのでは無く『他にあるでしょ!』恐らくリクエストをした人のセンスを、疑っていたのだ。

 それは少し離れた席からでも、はっきりと聞こえていた。

 歓声にも似た声が堅牢(けんろう)な空気と混じり、他の席より若干ヴォリュームが目立つ声、別段気にする訳でも無いのだが、日本語と英語が混ざっているので気になっていたのだ。

『あれ?もしかしたらと』

 トイレ立った際に、わざわざ遠回りをしながら近くを過ぎると、その光景は確信に変わっていた、何故ならその一団の中に普通では無い、あの独特な匂いを放つ、梶浦健の姿があったのだ。

 本当にびっくりした。何故に?一瞬どうしようかと思ったが、トイレの帰り道に思い切って話し掛けた。

「あの、すいません加賀見啓介です、お久しぶりです、あ、息子です!」

「あれまー、どうしてこんな所にいるのよ?」

「いやバイト先の方と、お酒の仕入れに来たんですよ!、それでちょっと良い事があったので、ちょっと奮発して」

「あー、そうなのー奇遇だね!」

 梶浦は見るからに、ご機嫌そのもので楽しそうな顔をしていた。

「私は良く香港には来るんだよ、月に2、3回はくるかなー」

 このホテルはいつも泊まっているのだとも、説明していた顔は、更にご機嫌な表情になり、相変わらず酔っ払っている。

「そうなんですか、凄いですねー、リージェントなんて」

「またゴルフでもお願いします!」

 啓介は、いそいそと席に戻り、椅子に置いた生地の厚目のナプキンを、元の案内に折り目を戻しながら話した。

「吉野さん、マジで、ビックリですよ、知り合いがいましたよ!」

「マジで?」

「はい、父親のゴルフ仲間で」

「へー、何だろうね、こんな所でねー……」

 啓介はそれより何よりお勘定が心配で、ギャルソンに右手でチェックを伝えると、その上品な黒のカードホルダーには『Plume』と押印があり、恐る恐る開けると、伝票はフランス語が犇(ひしめ)き合う中、最後の金額だけを確認する。

『29950HKドル』

 酔いと気分の良さとで計算が若干、覚束(おぼつ)なかったのは確かだと思う。

『17円として……、えーと……』、ざっと約50万ちょいだ。

 赤は『ディジャック』の『シャンベルタン』と『クロ・ド・ラロッシュ』、白は何と『DRC』の『モンラッシェ』だ、3本だけでも50万は下らない。

 シャンパンやコースに黒船カルバドス。それからシガーにアルマニャック、ポートにクレマンーの1948と一体どんだけ飲むの?と言う位の酒、あまりの量と種類にサムが少し、端折(はしょ)ってくれたのかも知れないと、勝手にそう思い込んでいた。

 金額的にカードは限度額を超えていたと思う。聞くと日本円でも大丈夫と言うので、決してスマートとは言えないのだが、リスボアの戦利で払おうと、暗がりの中で、数え始めていた。


「日本円でも大丈夫なんて、おかしく無いですかね?」

「そうだよなー、俺のカードで払う?」

「そうですよねー、ゴールドですもんねー」

「まー、サムが良いって言っているから、いいっすよ!」


 テーブルで日本円を数えている姿は、周りからしたら滑稽だろうと感じていた。

「僕は必要ないですからどうぞ!」

 封蝋で閉じた感じの『Receipt』

「使えますかね?」

「大丈夫よ、もうすぐ決算だし」

『Plume』と印刷された封筒を渡すと、少し照れ臭そうな顔をしていた。


「サンキュー!」

「いやー飲んだねー」

「そうですね。吉野さん、皆んなには内緒にしておきましょう!」

「そうだな、そうしよう!」


 翌日の飛行機は朝早い便なので、ホテルに戻って寝ようと相成った。

 日航香港には死ぬ程お世話になった。警察沙汰にまで発展したりと、香港珍道中も無事幕を下ろす事となり、怪我や事故が無くて本当に良かったと、心も其処から安堵していた。

 翌朝、丁寧にご挨拶をしてチェックアウトを済ませ、帰りのシンガポール・エアーの機内でも、吉野は朝の機内食で白ワインを頼んでいた。

『なー、啓介も一杯付き合えよ!』

 小ぶりのグラスだったが、2杯もあれば直ぐに酔え、迎え酒は立ち所に転寝(うたたね)の領域に到達すると、二人は成田まで不思議な夢を観ていたに違いない。


         24話


 その後、西麻布に戻った啓介は、4800万のゴールに向けての日々を送ると、誰もがその逸品にひれ伏すかの様に、皆麦の雫に溺れていた。

 実際の所、何処にも存在しえないモルトは、案の定、評判を呼び飛ぶように売れに売れ、香港で話していた棚にも、啓介が備前で活ける小さな宇宙は、日々その色を変え、お客からしても、安らぎやら勇気を貰えると評判になってもいた。

 今日はその棚には桔梗(ききょう)が一輪、淡い紫に染めた楚々(そそ)たる姿を映し、啓介の提案で、モルト用にとマイ・グラスを預かる様になると、世界中の美しいグラスが並び、ある意味今まとは違う側面の、そんな賑わいも見せると、同時にワインやシャンパンの売り上げも、顕著に数字が伸びていたのだ。

 あっと言うまに半年が過ぎ、そろそろ桜が聞こえて来る季節、例のモルトも順調に捌はけ、売れる喜びとは反対に、段々と消えゆく教会の鎮魂の火でもあり、吉野は常々、啓介に又何か見つけようと、事あるごとに言っていた。


「今度はワインにしましょう」

「実は南アメリカに旨いワインが、あるらしいですよ!」

「確かチリだったと思いますよ!」

「チリ?、そもそも作っているの?遠いだろうなー」

「まだ日本には入って無いので、聞く処に依ると、相当旨いワインがあるらしいですよ!」

「そうなんだ、行こうよ!」

「はい、詳しく調べておきますね!」


 啓介はソムリエの試験に見事合格すると、ワインの知識もさることながら、同じ表現でも厚みが違って聞こえ、説得力のある感性に、更なる磨きをかけると、其れなりに充実した日々の中、毎年恒例の『お花見』の開催が迫っていた。


 50人乗りの大型バスで行く、会費3万円の『お花見』

 河原でバーベキュー感覚で、フルコースを食べながら、シャンパンやワインを一日中飲み倒すと言う。

 酒呑みには何とも嬉しい企画内容で、東名の大井松田ICから25分位だろうか、源流を辿れば自然からの一雫く、やがて山々を這う流れとなり、川面を桜が淡い鴇色(ときいろ)に染める。

 そんな奇抜なお花見に年々、参加者も増え続けている中で、西麻布では、前日から吉野以下全員、仕込みやらで徹夜の作業に追われていた。

 日頃の愛願に応えての大盤振る舞いにバスの中はもう大騒ぎとなり、朝8時から夜中まで、狂喜乱舞な宴として、全員記憶が消えた帰りのバス。

 着ていた筈のトレーナーが何故だか帰りに失くなっていた吉野も、真っ赤な顔をして『来年からはバスは2台にしよう!』そんな車内には、幸福と言う名の汚けがれの無い天使が夢裡むりに咲く花に包まれていた。

 そんな中、啓介は毎日の暮らしで、思い倦あぐねいている事があった。そんな時こそ、有栖川公園の坂道は効果覿面だ。

 様々な書物の中に囲まれているだけでも、何故だか少し幸せな気分になれたからで、経済やら文学、歴史に科学、芸術、宇宙など片っ端から、貪婪(どんらん)に読んでは新しい発見に心震わせ、未開の地で歴史的遺産を探し当てたり、はたまた旅の途中で沈没船を見つけ出す。

 仮に、500年前の金貨を手にする事だって出来たし、そんな突拍子とっぴょうしも無い、夢物語の主人公にいつでもなれたし、その上、ノーベル賞だって『お茶の子さいさいさ!』と、言わんばかりに。

 実際には知識の欠如を、少しでも克服出来れば良かったと、それでもそこには、確固たる基本の上に、築かれた毎日とでも言うべきなのか、研究者や科学者と言った、職業に就たいと言う願望があったのだ。

 しかし現実は惨憺(さんたん)たるもので、そんな未来の可能性の欠片すらも、一体何処にあるのやら、先行き不安の流れを変えるには一体全体どうすれば良いのか……。

 頭の中で潜考(せんこう)がグルングルン回り、何処にも返答などは無く、かすかな光も途切れ古(いにし)えの暗夜に輝く、黒い月のようでもあったのかも知れない。

 そんな暗澹(あんたん)たるものの『BAR』では男女問わずに、人気を博はくしていた。

 カウンターには、女性客の笑顔や背中が、目立つ様にもなり自おのずと客が増え、それはそれで居場所や存在は担保され、無くてはならない一人になっていた。

 とある夜常連の横井は、いつもの様にワインやらモルトに浸り、やや頬を緩めながらニヤついていた。

「横井さん、何か良い事でもあったんですか?」

「ん?、まーね」

「なんですか?教えて下さいよー」

「いや、大した事じゃ無いよ……」

「だったら教えて下さい」

「んー、……どうしようかなー」

「そんな意地悪言わないで下さいよー」

「あのね、去年買った絵がさー、売れたんだよ、実は」

「え?絵?……ですか?」

「そう、絵だよ、絵・カイガ」

「あ、はい」

「そんな趣味があったんですか?」

「NYにいる知り合いから買ったのよ」

「何だか、カッコいいですね」

「いやいや……」

「どんな絵なんですか?」


「キース・へリングって言うのよ、そのねシルク・スクリーンなんだけどね」

「あー、あの結構ポップな感じの人ですよねー」

「そうそう、あれよ」 

「下世話な話、幾らで買って、幾らで売れたんですか?」

「それがさー、マジで信じられないのよ」

「去年、出張でNYに行ったじゃん」

「そうでしたね、お土産貰いましたよ、ヴェルサーチのネクタイ」

「現地法人の一人で、画廊に知り合いがいてさー」

「飯を食べた時に、良かったら一枚どうですか?って話になってね」

「じゃー、その時に買ったんですか?」

「そうだよ、翌日現金と引き換えにね」

「3000ドル」

「安く無いですか?」

「そうなんだよ、でもちゃんとした人でね、Park・Aveの自宅にも行ったしさー」


「45万位ですよね」

「で、幾らで売れたんですか?」

「幾らだと思う?」

「そんなー、判る訳ないじゃないですか」

「実はね、300万」

「マジですかー」

「何処で売ったんですか?」

「ほら、たまに来るさー、あの人よ、あの人」

「銀座の怪しい人ですか?」

「そう、あの人の紹介」


「そうなんですか……、へー……」

「それでさー、今度来た時にシャンパンを出してくれる?、それも払っておくから!」

「あ、はい、わかりました」

「横井さん!、ちょっと待って下さい、貯金の封筒見てみますね!」

「まだ、残ってる?、この間無くなったでしょ!」

「あります、ありますよ!、後、1万ちょいですかねー」

「そうなんだ、じゃー少し足しとくか!」


 啓介は、そんな初めて触れる世界に、少し興味めいた何かを感じていた。正直、皆目かいもく見当も付かない、未知の世界なのに、何だかゾクゾクした感じで、ワクワクよりも、ゾクゾクした方が適切な言葉だったかも知れない。

「今晩、終わったら皆んなで焼肉でも行こうか!」

「マジっすか!良いですねー、お願いしまーす!」

 程なくして、いつもの有栖川公園の坂道、啓介は絵画に関係する本を、何冊も並べる様になり、確実に大学の時より勤勉だったと思うし、時に、美術館や展覧会など国立私設を問わず、足繁く通っては、不可解な尊敬に抱いだかれ、奇蹟の放蕩(ほうとう)達を目の前にしては慄(おのの)き倒れ、時の経つのも忘れて、徐々にその不可思議な世界の虜になっていた。

 渋谷は松濤に出来た商業施設の美術館では、兼ねがね顔見知りにもなり、家からも近く自転車なんぞを漕げば、ものの10分で奇蹟の一枚に出会う事など他愛も無い。

 本物を体で感じていたかったし、同時に心眼の鍛錬にもなっていたと思う、然ただし何処まで行っても、画廊や書物他人の所蔵に、心満たされる事は無かった。

 実物と言う高みを見つめながらも、その絵の存在を知り喫驚(きっきょう)し、言葉を失いかけると得体の知れぬ衝動に、全身の毛穴と言う毛穴から噴き出る大量のエネルギーの塊まり、全身、隈無く流れる真紅の液体が、一瞬にしてその流れを堰(せき)止め停止へと導き、その瞬間に蒸気となって、この世から跡形もなく消え去ってしまうかの様な感覚。

『とうとうそんな一枚に、巡り合ってしまったのだ』

 もう抑制する事も出来ない、完全に粉砕された。今手に入れないと、一生後悔するとまで。少なからず、作者や作品について没頭すればする程。

『やっぱりダメだな……』

『俺をマジョルカが呼んでるぜー』

 夜な夜な、呪文の様に話しをしては、心は既に、カタルーニャの澄み切った青い空にあった。

 何時いつもの様に、広尾から西麻布に歩いていると、見覚えのある車が近寄って来るのだ、その巨体は記憶の片隅に、しっかりと鎮座していたあの車、その中から窓を開けながら特徴的な声が聞こえていた。


「ようー!、元気かい?」

「あ、はい、元気です」

「香港以来だね、ゴルフはどう?」

「はい、たまに行ってます」

「お父さんも元気?」
「はい、相変わらずです」

「そう言えば『BAR』でバイトだっけ?」

「そうなんですよ!」

「何処なの?」


「あのー、西麻布から少し上がった、右のビルです」

「えー、あの古い建物?」

「そうです、看板が無いので判りづらいんです……」

「近いうちにお邪魔するよ」

「あ、はい、お待ちしています」

 グレーの後部座席に収まると、巨大な車体はゆっくりとした速度で動き始める。その姿はまるで、地球上最大の生物である、シロナガスクジラがその巨体を大海原で、ゆったりと回遊し、行く手を阻む物など存在せず、鷹揚(おうよう)なる自由をその手中に納め、宇宙空間をもその支配下に置く、そんな風に映っていた気がしていた。

「啓介さー」

「あ、はい、なんでしょうか?」、

「そろそろ、モルトも底が見えて来たからさー」

「候補のワインは探してありますよ!」

「吉野さん!南米マジで行きます?」

「いいじゃん、そのつもりだよ!」

「じゃー具体的に話を詰めましょうか!」


 その夜は、本当に珍しく客足が少なく、青味がかった鉄平石はひっそりとする中、店にある時計の針が翌日に移ろうとしていた。

 そんな時に階段から繊細な踵かかとでは無い、どちらかと言と、ゴツゴツした感じの靴音がしていた。比較的鈍い音なので、踵に掛かる重さよりは、足の裏全体に体重が乗った降り方に聴こえた。

「いらっしゃいませ!」

「お!いたねー」

「はい、どうぞお二人様ですか?」


 梶浦健、恐らく2軒目か3軒目だろうか。

「いやいや、お薦めは何?」

「そうですねー、今さっきは、何を召し上がっていたんですか?」

「すき焼きでさー、ビールと日本酒だね」

「それでしたら、果物とシャンパンで始めるのは如何でしょうか?」

「うん、任せるよ!」

「中の人も飲んでね!」

「ありがとうございます!」

 最高の状態を迎えた石垣島のマンゴーと、巨峰も少し凍らせ、冷えたシャンパングラスが華麗に並ぶと、幾筋もの泡が永遠の命を繋ぎ、湧き上がり眼を醒ましたかの様に、満たされて行く姿を見て、梶浦健は何気なく言葉を発した。


「いいねー、実に美しい、啓介君はセンスが良いね!」、

「とんでもないですよ、ありがとうございます」

「乾杯!」

「ほら、香港のフランス料理で会った時に、彼も居たんだよ」

「Hello!」

「どうも」

「彼ね、ヘンリーちゃんね!」

「あ、はいヘンリーさん、よろしくお願いします」

「日本は良く来るんですか?」

「ソウデスネ、メイビー、ヨクキマス、コレマス……」

「ここ何年か一緒に仕事しているのよ」

「ヘンリーちゃんは中々優秀なのよ、香港大學出身でね、それからハーバードよ、ビックリでしょ!」

 あっとゆう間に3本目のシャンパンが目を醒ますと、意外な事にヘンリー・ウオンの親戚が、香港で画廊を経営していると言うのだ。

「ヘンリーさん、今とっても欲しい絵があるんです」

「ソウデスカ、ワカリマシタ、サガシテモライマスネ」

 啓介は、お店の名刺の裏に、名前と自宅の電話番号を書いて渡した。とは言え実際に手に入れるのは難しいだろうと思いながらも、梶浦の仕事仲間と言う事で、少なからず期待もしていた。

 日本経済の根幹部分は、自らの手足や体を貪むさぼり、更には共喰う姿態したいを増幅させ、最早人間辺りの力では、全くもってコントロールが効かない、制御不能の連合艦隊の様になっていた。

 そんな中やはり中心は。ゴルフ場開発・会員権相場・株式市場・不動産で、勢いを増し全世界を巻き込んで行くのだ。

 思想や哲学、教育や学問など、健全に生き抜いて来た前提など完膚無かんぷなきまでまでに失墜しっついしていたのかも知れない。時代と言う括りの中で、未来を予想する事など荒唐無稽、真相の探求も須要(すよう)無く、狂気狂乱の坩堝(るつぼ)と化し、見ず知らずの人までもが『良かったらどうぞ』と言わんばかりに、道ゆく人に現金を差し上げて歩く、そんな幻覚までもが混在していた。

 2週間位経ったと思う、夕方、開店準備に追われていると電話機が光る。営業中は聞こえ辛いので、電話が掛かると光って知らせる仕組みなのだ。

 突然の国際電話のアナウンスに、不慣れな口調で応対すると、電話の主はアグネス・ウォンと名乗ると、ヘンリーさんの親戚だと言い、会話の中身は当然の様に、欲しがっているその絵を、今探しているとの事だった。

 啓介は意を決し自ら探しに行こうと、そんな覚悟になっていたので、タイミング的には、上手い事行くのではないのかと思っていた。

 薄い期待も寄せていると、アグネス・ウォンの電話の後、トントン拍子に話は進み、その約一ヶ月後には、香港の持ち主が売却しても良いと、そんな所まで漕ぎ着けていたのだ。

 啓介自身、ここに来て、自分の買ったゴルフ場の事が、少なからず気になっていたのもあり、父親に少し相談をしていたのである。

 当然の話、父親の言葉の方が上回っているだろう。


『買って何がしたいのか?』


『将来役に立つのか?』

 その辺りを行ったり来たりして、正直、決断には程遠いと思っていたのだ、それでも会員権の相場だけでも調べると、栃木のコースの値段が一番安く、真面目な話、3つのコースの合計金額が、約5300万に達していたのだ。

 即売却して、残債を支払っても、ざっと4000万が手元に残る計算に興奮していし、正に有頂天になっていた。

 梶浦からの電話で、もう一人欲しがっている人がいるので一刻も早く決済をした方が良いと、決断を迫られれていたのも事実で、アグネス・ウォンからも、何度か電話を貰っていたが、少し話が歪んで来たと言う。

 当初に提示していた金額は約5000万、恐らくその辺りで購入可能だと言っていたが、値段の折り合いがつかず難航していると。とは言え、見えない相手の存在、果たして如何な物かと?啓介は至って冷静に、事の行方を拱手傍観(きょうしゅぼうかん)と決めていた。


        25話につづく




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