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[小説] 『鱗』〜ウロコ29話〜最終話。炙りされた真実は、30年の時を経て巡り合う。


        29話

 東京地検特捜部の捜査が始まるのを察知した梶浦は、先を読んでいたと言う。

 佐伯が、世界的競売団体の発行する鑑定書を作ったと言って持って来たのだ。事実、佐伯も破綻した後、相当危ない所から借りていたらしく、その返済を迫られ行き着いたらしい。

 佐伯の印刷に於ける技は、一級品だと改めて思い知らさせれた梶浦は、贋作と知りつつも、自ら有名な絵を集め始め、その事をヘンリー・ウォンに話すと、香港に贋作を描く天才がいる事を突き止め、ほぼ毎月のように香港に出掛けては、贋作の制作に励んでいたのだった。


 事実ゴルフ場開発の裏での贋作ビジネスと、結果、本物に並ぶ程の優れた鑑定書を作り出す事に成功した、佐伯の存在が、相手を黙らせていたのだ。

 そして地検の捜査が始まる頃には、梶浦も経済的に相当逼迫(ひっぱく)していて、その頃は既に、裏稼業が軌道に乗っていたのもあり、ほぼ日本中のゴルフ場にある殆どの絵は、梶浦から買った贋作と言っても、過言ではないだろう。


 佐伯自身、インクや紙の知識の集積は半端じゃなく、特に鑑定書を左右する上で、最も大事な紙質の研究には余念が無く、最終的には電子レンジでチンする事で紙の劣化を促し、そこにオーブン調理法にして低温で焼く事で、時代(とき)をずらす事にも成功したのだ。

 蝋のサンプルは至ってはどれだけの時間を費やした事か、それは天賦の才能が見事に花開いたのだ。

 やがて新しい命を吹き込まれた鑑定書はざっと5、600点に上ると白状したらしい。


 実際に母国の誇りを掛けた鑑定に及ぶとは、梶浦も佐伯にしても夢にも思っていなかっただろう。とは言え梶浦と佐伯は恐らく、鑑定書を真似たと言う弛緩(しかん)的な考えや、罪の意識など毛頭無く、実は本物以上の鑑定書を目指していたのかも知れないのだ。

 本来漸悟(ぜんご)の様な生き方を貫いていた梶浦と佐伯は、頓悟(とんご)の闇で食い違う歯車に、まるで油分が切れて『ギリっギリっ』と軋む歯の一本一本に巻き込まれ、ゆっくりと時間を掛けて挽肉にされる様な、二人の行いから以ってすれば、そんな刑罰をお願いしたいと願っていた。

 そんな流れの中で、梶浦は啓介の話した絵に触れた瞬間に本当に言葉を失い、何が何んでも欲しくなり、自作自演を演じていたとも付け加えた。

 事実ラメッシュから買った金額はたったの3000万、釣り上げれば啓介も諦めると思ったらしく、拗(こじ)れた挙句にアグネスが贋作を渡し、アグネスが3000万、梶浦が9000万、二人で分けたとも言っていた。

『啓介君だけじゃ無い、知り合いでも、相当やられているんだよー』

 梶浦は、誰だろうと御構い無しに騙しに騙したのだと言う。もしかしたら、都内の銀行の応接室に飾ってある絵の、殆どが贋作かも知れないと付け加えた。

 鑑定書がセットになっていると、100%信用する所を巧みに突いたのだと言う。

 齋藤さんは更に話をしてくれた、梶浦は本来悪い人間では無いのだ。娘が大学に入学した年に松陰神社の自宅が火事になり、母娘が焼死体で発見され、その頃を境に様子が変になって、根っこにある闇の感情が抑えきれなくなったのだ。

「そもそもね、梶浦と俺はね同じ中学校でね、釜山なんだよ」

「えー、そうなんですかー」

「あいつはねー、・・・あいつの親父の影響もあるんだろうな・・・」

「何があったんですか?」


 齋藤さんは昔の記憶を本を捲めくる様に、話し始めると、梶浦健の父親は釜山の港で、荷揚げを仕切る会社を経営し、地元でも有名な会社として名を馳せていた。

 梶浦健が中学2年生に上がった頃に、仕事でトラブルになっていると父親から告げられ、少しずつ家からも遠ざかり、頑丈な柱が消え、何か大きな問題が発生している匂いが、常に家中を覆っていたのは、中学生と言えども感じていたと言う。


 梶浦健は小学生の頃から成績は良く、クラスでもトップからいつも5番以内で、特に算数が得意科目で、勉強が出来る奴として通っていた。

 父親の事が大好きな梶浦健は、いずれ父親の会社を継いで2代目として、普通に生きて行くと思っていたので、父親とは将来の事を彼是と話すのも楽しみで、全幅の信頼を寄せていたし誇りもしていたし、父親との時間を大切にしたいと願っていたのだ。


 父親の趣味の一つに麻雀があり、索子を抜いたサンマーが流行っていて、仲間も数多く会社でも外でも場が立っていた。

 金回りが良い父親は、目立つ存在として際立ち、何かに付けて断れない性格でもあり、色々な相談事にも良く耳を貸していたと聞く。

 しかも麻雀の腕もピカイチで、周りからも尊敬に値する人間と称され、ある日仲間の一人が持ってきた話を聞くと『良いよ、会おうじゃないか』と、その日はツキにも見放されてやることなす事裏目の日だったのもあり、そんな流れだったと言う。


 戦争中に家族で日本に移り住んだ柳(りゆう)と名乗った。何でも日本の九州から建設用の金属パイプや螺子を運ぶので、手伝って欲しいと言って来たのだ。

 何気ない話だったので軽く引き受ける事になり、最初の荷は直ぐに港に到着すると、径が大きのから小さい物まで種類が豊富で、小さいパイプは蓋がある筒のパイプで、中には直系にして1メートルに及ぶパイプもあり、港に揚げると場所を食い、少し厄介な荷として始まったと振り返った。


 1年程すぎて5回目の荷を揚げた。

 その日も卓を囲んでいると、麻雀荘に10人位だろうか、手には青龍刀やバットや木刀を振りかざして大声で傾れ込んで来ると、真っ先に父親を捕まえて卓の上で右手を断割(だんかつ)したのだ。

 そして両脇を抱えられて店の外に連れ去られ、あまりにも一瞬の出来事で何が何だか判らず、居合わせたお客もただ呆然として突っ立ている、卓の上には血まみれの牌をツモる様に右手が転がったのだ。

 翌日、自らの会社から直ぐの岸壁に、父親の溺死体が、引き上げられると警察の取り調べが始まり、『アヘンの密輸』として京郷新聞の紙面は大きく掲載し、家宅捜索からは何も出ずに母親と中学3年生の梶浦健は途方に暮れたのだ。

「でもねー、普通はグレるんだと思うよ、普通は」

「どうしたんですか、それから」

「それからね、あいつは猛勉強したんだよ、でもね、世間がうるさくてね韓国に居場所が無くなってね、実は母親と二人で日本に移り住んだんだよ」

「そんな事があったんですか……」

「じゃー、斎藤さんはいつ日本に来たんですか?」

「俺はねー、梶浦から手紙をもらってね、日本は良い国だから来いよ!ってね17歳の9月だったかな、それで両親に話したんだよ勉強したいってね!」


「そう簡単じゃないですよね」

「そうだね、俺は最初に大阪の住吉区に住んだんだ、学校の都合でね」

「まさか、一人じゃないですよね」

「釜山の仲間3人でさー、共同生活を始めたんだよ六畳一間でね、楽しかったよー、それはそれでね、実は俺もね梶浦ほどでは無いけど勉強ができた方でさー、でも俺は大学より就職を希望していたのよ」


「梶浦さんは大学に行ったんですか?」

「そう、それで銀行に入れたんだよ。東洋銀行は韓国の資本が入っているかね、だからさー、梶浦のお父さんの事があるからなのか判らないけど、悲惨なんだよねあいつの人生は」


「んー、何にも言えないですよ」

「それでもね、高校に行っても友達はいなかったなー、学校の中では目立たなくしていたよ。何だろう、でもね『絶対やってやるんだ!』と、静かな闘志は感じていたね。あいつはね、俺には良く言っていた事があってね、何で『親父は何で殺されなけばならなかったのか』ってね」


「いやいや、だからって許せないですよ……」

「そうなんだよな、だからね、もう一人の自分がいたのかも知れないんだよ」

「何ですか?もう一人って、訳が判らないですから、本当に」

「実直な面と、金の亡者の二つだと思うよ、銀行にいる時も随分といろんな人間を助けたんだよなー、時代もあると思うよ、この時代だから出来た事もあると思うからね」

「それは誰しもあると思うんですよ」

「そうじゃないんだ、あいつはね本当に父親の事が好きだったんだ、その一番大事に思っていた人が殺されたから、心の中で父親を探していたんだと思うよ、あいつはね父親の右手の遺灰(いはい)を今でも持っているんだよ、闇の部分だなー……」


 闇に光が射せば変わったのかも知れない、しかし影を落とした闇は、輝く事はなかったのだ。数奇な運命の果て、齋藤さんですら何処に隠れたのか判らないと続け、忽然と消えた梶浦健。

 当然だろう、どの顔下げて現れると言うのか、齋藤さんの吐く一言には、社会的包摂(ほうせつ)が感じられていた。


『まー、恐らく死んだのかもなー……』


「本音では、生きていて欲しいけどね、難しい問題が山ほどあるからなー」

「齋藤さん、一つ伺っても良いでしょうか?」

「うん。何だい?」

「えーと、僕の絵はどうなるんでしょうか?」

「そうだなー、どうにもこうにもならんだろーなー」

「父は訴えると言っていますが、どうですか訴える相手がいないとなると……」


「佐伯さんは共犯ですよね……、佐伯さん」

「佐伯も行方不明だしなー、探すって言ってもなー、何処をどう探すよ一体全体」

「まーそうですけど、矢口渡はどうなっているんでしょうか?家とか家族とか」

「其れがさー、実は佐伯も工場諸共空き家だよ、空き家。多分銀行で競売に掛けて誰かの所有になるとは思うけどね……、まー要するに何も無いんだよー、佐伯は」

「興信所で調べてもらうかい?、知人で探偵事務所やってるのいるけどねー」

「どうだろうねー、時間とお金が結構かかるんじゃ無いかなー、恐らく」

「あれだろ!啓介君は、お金だよなー、だからさー、本物の絵は梶浦の所にあったと思うけど、とっくのとうに売っていると思うんだよなー」

「いやー、マジでどうにかしないと、このままじゃ死んじゃいますよ、僕も」

「信用金庫は何て?」

「現状、担保を失なったと言えども、支店としては返済が滞とどこおりなく進めば良いと言ってましたね、支店長が」

「今、例の中目の店は繁盛してるんだろ?」

「あ、はい、まあまあ頑張っています」

「手っ取り早く稼ぐか?ウチで?ウチの会社で、その代わり『きついぞ。』」

「齋藤さん、無理っす!イヤイヤ違うでしょーね、其れは」

「地道に生きるしか方法が無いな、現状は」

「んー……、ふー……」


「勉強だよ!勉強!、俺はね、37の時だけどねー、地獄の10億を経験してっからなー、神様がよこしたプレゼントだよ!特別な人にだけ許されたプレゼントさ!」


        最終話



『さあー、退院したら、鮨か焼肉だな————』


 ナースコール脇のオープン・スペースに気が利くカミさんと、一人息子の顔が元気一杯に『やっぱり焼肉でしょ!』と、息子の活き活きとした声が聞こえる。

 二人の元気な顔を見て位ると、生還したこの身体が愛いとおしく感じられた。このひと月半の入院で見た様々な人間の在り方について、学んだ気がしていた。

 仮に二人の身に何かがあり、我が身を以って大きな決断を迫られるのならば『喜んで差し出そうじゃないか!』そんな鉄石の覚悟にもなっていた、即ち心と身体が強健になったのかも知れない。


 人間の単純な欲求は、本能のままに突き進むのだろう、所詮人間とは時間が経てば、痛みを忘れ真新しい記憶に上書きされ、押し流されて行くのだろう。

 喜びの対岸には、気になる残存の姿がある。部屋の入り口には河村雅夫と記され、相当の年齢に達している事だけは判っていた。

 まだこの部屋に入って3日、その間一度たりとも担当医の回診は無く、このまま絶えてしまうのか、そんなカーテンに包まれていた。

 こちらは、見事に栄光を掴み取り、退院を目前にしている、どうでも良い事だが、看護師に少しだけ尋ねると、答えらしき言葉が帰って来た。

 看護師との話では83、4歳と言う年齢、人間を構築する為に必要な内臓機能、その全ての臓器がダウンしていた。加えてステージ4からの転移も見受けられ、壊滅的な状態らしい。然しながら、年齢が幸いしているのか、あまり変化も無く其れ故カーテンの中が静まり返っているのだと。


 相変わらずカーテンは閉ざされたまま、トイレにも行かないのは何故か?そう、行かないのでは無く『行けないのだ!』その身体はオシメを余儀なくされ、其れ故にカーテンが揺れないのだ。

 看護師との会話でトレーを下げる際に、食事を殆ど食べていないのだと言う。恐らく、病気がそうさせているのだろう。


『食べたくないのか、食べれないのか……』


 突然、記憶の『鱗』が剥がれ落ち、露わになって行く過程に、海馬の奥深く眠る冬の間、息を潜めた球根。


 人間の記憶とは恐ろしい、その『鱗』の一部が、断片的に蘇生し始めていた、依然カーテンの中は窺(うかが)い知れず会話も幽(かすか)に、只々気になる声の幻影。

『しかし未だ生きているのか?、いや、そんなバカな事は無いだろう……』

 父親の七回忌も終えているのに、年齢的にもう少し年上だった筈、生きていれば90歳近いだろう。

 それでも現実に記憶の中で聞こえる声、あの声がこの場に存在しているのだ。ベントレーの車内、赤坂の夜、しゃぶしゃぶ屋で聴こえていた声質、高さ、イントネーション、その『鱗』の中にある条件と一致しているのだ。

 それはもう、神の頸(くび)に侵寇(しんこう)した事と等しいのかも知れない。同じ病院、同じ入院患者、同じ部屋に、呼吸をして生存している。

 看護師の呼び掛けは河村雅夫、今までの人生で、友人知人合わせても思い当たる節は無い。

 人間は生き返ると言うのか、生きる事の凄烈(せいれつ)や寛容、悲哀と挙げればキリがない、人間は次に何処を目指すと言うのか。

 一つひとつ剥がされて行く『鱗』にも似た人間の記憶、その『鱗』を激しくも一息に剥がされて鮮血が迸ばしり、激痛を伴いながら、もう僅かな命と狼狽(ろうばい)する己の情念。

 幾重にも連ねた『鱗』には、生きて来たと言う真実が、隠れているのかも知れない。

 度重なる壮烈なる運命、何度も問うが帰趨(きすう)すら感じ得ない、生きる為の欺瞞(ぎまん)、尽きせぬまでの失意の果て、心と体は離れ離れになろうとも、宿命と言う名の川を流れて、いつの日か溟海(めいかい)の底で一つに結ばれると言のだろうか。

 人間なんて最近生まれて来たのだ。

 3億5000年前、太古の昔から悠然と大海原で泳ぐ姿、その身体全体を覆う『鱗』にも、どれだけの記憶が蓄積されているのか、太陽のエネルギーを魂に宿し、生命の起源に回帰しながらも、愚かな人間よりも、微生物や細菌の方が、遥かに老練なのかも知れない。

『と、次の瞬間カーテンが完全に開いた』

 『あり得なかった』

 そこには正しく、加賀見啓介の知る『梶浦健』の姿があったのだ。

 その顔は30年前に触れた匂いも消え去り、輪郭などまるで似ても似つかない醜貌(しゅうぼう)と成り、今まさに燃え尽きようとしている。

 瀕死の際から、脱出を試みようとも漲(みな)ぎる力は、程遠く血潮さえも枯れ果てて、緩やかに消え逝く、魂魄(こんぱく)の莢(さや)の中に息を顰(ひそめ)ていたのだ。

 完璧に目と目が合ったと思う。しかしそこに境界する物は無く、表情に変化をもたらす事など皆無だった。どうしてあの時、数多くの人を、欺騙(きへん)せしめんとしたのか。

 神様は何故こんな事を最後に、残しておくのか。

 かつて亡霊と感じた人間が、生霊として、図らずも30年以上の時を巡り辿り着いた。人間の始まりから終わりまで、全てを掌(つかさ)どる役目を持った傘の下、何故この場所を選んだのだろうか、いっそ死んでいて欲しかった。

 その左手は薬と治療の影響だろうか、黒紫色に変色している。かつて見た右手の拳を労(いたわ)る様に、その左手が胡座(あぐら)の上で何度も何度も摩っていた。

 加賀見啓介は、河村房子の存在を知らなかった。

 不安定な記憶の滞留の中で、梶浦とて、こちらの顔を判る筈が無い。現実30年以上の時間(とき)が流れたのだ。ましてやは会話を求める気力なども完全に朽ちていただろう。

 梶浦健は、逃亡の最中河村房子の養子として、戸籍を変えていたのだ。当然、理由があっての事、その時に下の名前も改名したのだ。

 仮に、何度も生まれ変わるとしたなら、次の世界とでも言うのか、来世の分まで前借りしたかのように、はみ出してしまったのかも知れない……。


 翌朝、喜びに溢れた退院の日を迎えると、毎日聞こえていた生を繋ぐ『命の音』とでも言うのか、そんな音も聴こえている。

 しかし対岸のカーテンは揺れる事は無かった、主人(あるじ)が消え整然とされた部屋からは、もう完全に絶無となり匂いの残痕も失せていた。

 本当に色々とお世話になった場所、ナース・センターに最後の挨拶をしていると、思い出深い顔が、カウンター越しに並んでいた、色んな思い出がたっぷり詰まったトートバッグは、やっぱり力強く逞しくしっかりとしていた。

 そこに一人の看護師が思い出した様に、声を掛けて来た。

『加賀見さん、預かり物がありますので』

 そう言って差し出したのは、頑丈そうなストラップが付いたプラスチック製のグレーの筒、所々錆びた鋲(びょう)が時間(とき)を感じさていた、退院の証書でも入っているのか、筒の中に多少の重みを感じながら、蓋を回した。


『何だろう……』

 恐る恐る開けると、濃黄色に光る世界が眼球を貫いた。

 そこには啓介が命を削った『奇蹟の一枚』


『ジョアン・ミロ』の『エルミタージュ』の真筆が姿を現したのだ。


『俺の絵だ—————————————』


『俺の、俺の絵だ———、俺の……何なんだ、俺のエルミタージュ……』

 何とその中には、誰一人として見抜けなかった、本物の鑑定書も同封されていた。

 敷き詰められた夥しいまでの譎詐(きっさ)に傾倒し、贋作と言う罪咎(ざいきゅう)も遺却(いきゃく)の果てに存在した『エルミタージュ』

 28年間その身を隠していた『エルミタージュ』

 何故ここで巡り会う事になったのか、記憶の中に収められた事実が真実となってその姿を再び表したのだ。

 加賀見啓介は、その姿に記憶を重ねると『エルミタージュ』が微笑んでいる様に見えた、自も再び命を授かり、生を全力で全まっとうするのと何か縁(よすが)を感じていた。

 筒の中からは番いと一緒に、縦長の白い封筒が顔を覗かしていた。

 宛名も自筆も無い白い封筒、しかし封だけは糊でしっかり閉じてあり、長椅子に座り開封すると、便箋から豊かに溢れる、優しく穏やかな筆致の中に樟脳(しょうのう)にも似た、えも言えぬ懐かしい香りを聞いた、それはやや透かし柄の和紙に記しるされていた。


        (手紙本文より引用)


 加賀見啓介殿

 初めまして、このお手紙を啓介さんが読むとすれば、私の愛した主人ひとは、この世を去り旅立っている事でしょう、啓介さんの話を聞いたのが今から二ヶ月前でした、すでに余命は僅かと判っていたので、身辺整理の話をしていました。

 中には知らないことも多々ありましたが、さりとて大体の整理が終わった所で、主人が目に大粒の涙を浮かべて、泣き出した夜があったのです、初めて見る涙でした。


 而も真実の告白の中、やってはいけない事をしたのだと、関係の無い人なら未だしも、啓介さんを騙した事への罪。

 主人は、永遠の嘘を突き通すつもりだったと、告白しました。


『俺は天国には行けないから、真実は地獄に持っていくんだ』と。


 この絵は本来、啓介さんの処に行く運命(さだめ)だったものを、主人が変えてしまったと……、決して許されることでは無いのは、重々承知しておりますが、主人はこの絵を最期まで持っていた事を思うと、心の何処かで、啓介さんに心から詫びたい気持ちがあったのだと思います、どうかお許し下さい。

            河村房子   

   

 奇くしくも、28年ローンの返済予定表、その最後の1行336回目が引き落とされ、永きに渡る返済も終りを告げた。

            加賀見啓介


             『完』

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