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お金で買えない幸福

最近、よくこの事について考えます。何故なら、お金で買えない幸福に少しだけ気付いちゃったからです。今日はその事について綴ってみようと思います。

「幸福」へ動く瞬間

皆さんが「幸福」を感じる瞬間ってどんな時ですか?
美味しいものを食べた時?
愛する人との一時?
仕事で成功した時?
様々なシチュエーションで感じる事があろうかと思いますが、基本的に外的な「縁」によって感じる事が多いのではないでしょうか。「食」で感じる場合は味覚が美味という「縁」に触れて幸福感を得るでしょう。また、愛する人との時間も、相手との「縁」の重なりを楽しむ時間です。仕事での成功などは正に成功に向かう「縁」が無ければ成し得る事ではありません。ふと思いついた3つの例をとって見ましたが、その他、様々な場面に於いても、幸福を感じる瞬間には「縁」が働いている事が普遍的な法則として見て取れると思います。ただ、この部分だけを見ると、「幸福」とは「縁」によってもたらされるものと思いがちですよね。おそらく殆どの方がそう思っている事でしょう。この構造が、何かに似ていると思いませんか?そうです。お金によって何かを得た時の感情の動きにそっくりです。しかも、多くの場面に、お金によって「縁」がコントロールできる場合が存在しているのも事実です。だからこそ、お金=幸福というマインドセットが成立し、「幸福」へ動く瞬間をお金によってコントロールしようとするのでしょう。

「縁」は操れない

しかし、「縁」とは本来、コントロールできるものではありません。病気になったり、夫婦仲が悪くなったり、部下がミスを犯したり・・・。全てを自分の思い通りにできてる人など存在していません。確かに経済的に豊かであれば、場当たり的に回避したり、苦しみや痛みを変換できたりする場面が増える事は確かです。しかし、根本的な問題が解決してない事が多いと私は見ています。例えば一旦拗れた夫婦仲が、どんなにお金を積んでも良い方向へ向かう事は難しいのと同じで、離れた心をお金で買う事はどうやっても出来ないからです。お金の力で「縁」をコントロールしようとしたり、人の心を意のままにしようとするのは「幸福」へ動く瞬間に働く力をお金で得て来た経験則からくるものであり、構図が似てる為の「勘違い」や「錯覚」がもたらすものであると言えるのではないかと思います。資本主義社会である日本においては、この経験則が膨大な量で積まれるので、そりゃ「錯覚」もしますよね。

「幸福」はもたらされるものではなく見つけて感じるもの

ここからが私が気付いちゃった内容になってきます。「幸福」へ心が動く瞬間には「縁」が働いてると言って来ましたが、この「縁」が実は沢山存在していて、多くの場合を見逃していると言う事に気付きました。これに気付いたのはこんな時でした。仕事を早く終わって帰ったある日、妻が料理をしていました。揚げ物をしていたのですが、食材の水分が多かった為か、油がパチパチ弾けて飛び散っています。そのせいで鍋に近づけません。熱さに耐性のある私が参戦し、揚げ物との格闘が始まりました。鍋の蓋を構えて油を防御し、まるでローマの剣闘士の如く、菜箸で鍋の中の揚げ物をひっくり返そうとつつきます。妻も私も、飛び散る油にキャッキャと笑いながら格闘していました。リビングで宿題をしてる子供達はその様子を面白がって見ています。この瞬間、私の心の中に「なんと平和で幸福な時間だろう」となんとも言えない充足感と多幸感に包まれました。この時、確信したのです。「これがお金で買えない幸福か!」と。なんでもない日のなんでもない一時です。ですが、かけがえのない時間を得る事になりました。実は、日常に沢山の「縁」が働いており、その「縁」をどのようにキャッチしているかは、自分の心によって決まっています。心の状態によっては、同じ現象でも「不幸」とキャッチしたりする事もあるかも知れません。要は、その時々に起こっている「縁」に対し、「幸福を感じる心」を働かせているかどうかで「幸福」かどうかが決まっていると思います。この「幸福を感じる心」を働かせると「幸福を見つける力」が働きます。その「幸福を見つける力」がそこにつながる「縁」を見つけて来ます。沢山に散りばめられた「縁」が「幸福」へ動く瞬間の力と成り得てくるという訳です。そうやって、何気ない現象、ありふれた日常の全てが「幸福」に動くチャンスとなる。それこそがお金で買えない幸福ではないでしょうか。







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