「ホモ・デウス上巻」人類は己の欲望のために自らの感受性を無視できるようになる



本書の上巻を読み終えて最も刺激に満ちていたのは、既にこの地球上に自然状態での動物というものはごくわずかでほぼ9割以上の動物が「家畜」となっているということ。

サピエンス全史でも動物とのかかわりには随分多く振れていたが本書で面白いのは、その触れ合い方の荒々しさを人間が一体いつになったらやめるのか(とは言っていないが私が勝手にそう解釈した)という方向に振れていくところ。

9割以上の大型動物を産業革命以前に滅亡させていたホモサピエンスは、霊長類と全く同じ感情や心の動き苦しい悲しみを感じることがはっきりと分かっている豚や牛や鳥に対して残忍非道な行いを日々行い1年に90億以上の命を人間のためにただただ消費し、飼育過程は生きている事が地獄ともいえるほどの過酷で残忍な方法を現在でも行い続けていることが分かる。

人間の母親と同じくわが子が生まれた瞬間引きはがされる親は泣き叫び悲しみその悲しみのサイクルの中で全く身動きとれない飼育小屋で朽ちていく。
あの小さなラットで躁うつ病の薬をテストして研究していることそのものが人間と共通点があることを如実に物語っているというのになぜか人間はそれを「感じないことにする」という能力があるようだ。

我々はほんの数百年前まで当たり前に同じ人間を奴隷として使い何の感情的配慮も行っていなかったし、ほんの数十年前までアメリカは黒人を奴隷として家畜同様に扱いその感情に何の配慮もしないのが当たり前だった。
ところがそれだけ人類の感情に配慮できるようになった人間はなんと感情に配慮しない範囲を増やし続け当たり前のように動物の生涯を自分たちのためにつぶすことを全く厭わない存在となった。
古代の人類のほうがよほど彼らに対して敬意を払いトレードオフのような関係で何かを差し出していたと本書は説く。
黒人の奴隷制度を観るような気持ちで現在の家畜制度を観るときが来るのは一体何世紀後なのだろうか。

信じがたいほど多くの動物の「筆舌に尽くしがたい苦痛に満ち溢れた生涯」の上に成り立っている現在のわれわれの人生。
そこで私が思ったことは「やっぱり放し飼いされている良い肉を食べなくてはいけない。安い肉は食べづらい」ということくらいではありますが・・・
人類とは己の欲望のためには自分たちの感受性を鈍らせるという恐るべき特性を備えているように思えてなりません。

「現代の医療は実のところ我々の命を1秒も伸ばしていない。ただ早死にするのは防いでいるだけだ」
「狩猟民族は自分たちが優越した存在だとは考えていなかった。農業革命は経済革命であると同時に宗教革命であった。動物の残酷な利用を正当化する新しい宗教の信念とともに登場した」
「進化論はなぜそんなに物議をかもすのだろうか。相対性理論に腹を立てる人がいないのは私たちの信念となんら矛盾しないからだ。」
「私たちは動物の擬人化によって動物の認知能力を過少評価し人間以外が持つ特有の能力を無視する」
「主観、客観に続く第3は共同主観的レベル」
「自己陶酔は幼児期の人間全員に共通する特徴だ。彼は何事も自分のせいで起こると信じている。一神教の信者はこれに似ている」
「物語は道具にすぎずそれを目標にすべきではない。なのにいつの間にかそのために自分を犠牲にしてしまっている。虚構と現実、宗教と科学を区別する能力はますます重要になっている」
「宗教と科学の隔たりが一般に思われているより小さいのに比べ宗教と霊性の隔たりはずっと大きい。宗教が取り決めであるのに対して霊性は旅だ」

上記に一つでも引っかかるところがあれば本書を手に取るとすべてが繋がっていくことがわかるだろうと思う。
あまりにありとあらゆる世界に飛び火しているので各々世界にどの程度精通しているかは分からないが大切なのはそれらをつなぎ合わせて自分のストーリーを紡ぎだすことだろう。
そのきっかけを与えてくれるのには十分すぎる内容が詰まっている。


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