やさしさと正しさは共存できるか

これはお前のためにいっているのだ。
後できみがこまるから。
絶対こっちのほうがいいよ。

などなど、ものを教えられるときに聞いてきたフレーズです。

本当にそうなのか?というのは、分かりません。
時間は不可逆的だからです。

ただ、それが適切な助言なのだろうかということは言う前に考える必要があると思います。

それは一方的なこちらの思い込みになっていないか?
その人はどう考えているのか?
問題を解決するべきなのか?

などなど、自分の”正しさ”が相手にとってはただのお節介だったり、返って相手の”正しさ”を結果的に無視することになることが問題のように思います。

やさしさが正しさに変換されるととげとげしくなったりもします。

「多様性」にも似たことがあると思います。

手話をしているだけで石を投げられたことがある。
ある高齢の聾者(耳が不自由で手話という言語を用いる人)の話です。
今から50年ほど前の話にはなりますがこういう時代が実際にあったそうです。

今でこそ違うのは、「手話という言語で話す人がいる」という認知が広くなされているからだという風に考えられます。これも一種の”正しさ”です。

ただ、耳が不自由な人に手話で語り掛けるのは”正しい”のか、と言われると難しいところでしょう。
耳は不自由だが手話が堪能でない難聴者の人もいます。

このように、やさしさ故の行動が相手の立場からすると正しくない行動に見えることがあります。
正しいはずなんだ、という思い込みは危険だと思います。

多様性を認めるということは、マイノリティだからといって大雑把にまとめグループ化すること以上にそれらの視点も同様にして理解することが大切だと考えます。


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