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「自殺」— そこに《意志》はあるのか?

今日は早朝サーフィンを終え、家で椅子に座り窓から見える山や海や空なんかを見ながら、ぽけーーっとしています。鳥がぴーちくぴーちく鳴く声なんかも聞こえます。とても心が安らぎます。僕の中の小さな喜びのひとときでもあります。

ということで文章でもつづってみようと思います。

今回もスピノザ『エチカ』より、興味深い部分を紹介していきたいと思います。

スピノザ(Baruch de Spinoza)🇳🇱
[1632~1677]


題名にある通り、スピノザは「自殺」というものをどうとらえているのでしょうか。

まず始めにスピノザは「自由意志」という概念を認めません。意志は「自由な原因」ではなく「強制された原因」であると言います。


「意志がない?!そんなバカげた話があるか!」


と思う方がほとんどだと思いますが、これは現代の脳神経科学の見知からしても正しいのです。

脳内で行為を行うための運動プログラムがつくられた後で、その行為を行おうとする意志が意識の中に現れてくるのです。


手を挙げるという動作を例にとってみましょう。


一般的にみなさんは次のように考えていると思います。

自分が手を挙げようと意志する⇨脳が指令を出す⇨手が挙がる

違います。

脳が指令を出す⇨自分が手を挙げようと意志する⇨手が挙がる

です。

自分が手を挙げようと意志する前に、既に脳から手を挙げるという一連の動作の指令が出ているのです。


ゾッとしませんか?


僕たちは目を覚ましているときにも、常に内部モデルという夢(無意識)の世界の中を生きているのです。



意識について書いてしまうともうキリがないので、興味がある方は少し難解ですが、脳科学者であるマイケル・ガザニガの書籍をおすすめします。愕然とすること間違いなしです。




さて、このことを踏まえて話を「自殺」に戻します。 

スピノザは自殺について意志というものを認めません。

あえて言うが、何びとも自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺したりするものではなく、そうするのは外部の原因に強制されてするのである。

『エチカ』第四部定理三十備考

つまり自殺の場合、本人には意識されないかもしれないが、何らかの外部の原因がそれを強制している、と言っています。

例えば幼少期に凄まじい虐待にあい、その記憶に耐えきれず生きるのがつらい。あるいは何らかの重大な責任に追い詰められ、その苦しさに耐えられない、というような圧倒的な外部の原因があるということです。

それは自分のコナトゥス(活動能力・本質)が外部の原因によって踏みにじられた状態において起こるとスピノザは考えるわけです。

外部の力によって自分が完全に支配されてしまい、うまく自分のコナトゥスに従って生きることができない状態なのです。

これはアルコール依存や薬物中毒者などにもいえることだと僕は思います。何らかの過剰摂取をその人自らの意志で能動的に選択しているのだと言うのは難しいことだと思います。

本人の責任であるとは言えないのです。

冷静に考察すれば、アルコールや薬物の使用などは、心身をめぐる複雑な何らかの耐えがたさと結びついていることは容易に想像できるはずです。

たしかに自ら進んで手を伸ばしたとはいえ、このようなことを考慮せずに一足跳びに責任を問うということは、あまりにも雑なことではないでしょうか。

しかし、僕たちの意識は「自己の意志(責任)」といわれるような「幻想」から逃れることはできません。

社会というものはあまりにも残酷なところです。

その中で僕たちは折り合いをつけ、彷徨い、時には堂々と逃げながら、小さな「喜び」を探し求めて、「大なる完全性」に向けて在りつづけるしかないのです。


生きるのではなく、

在りつづける

のです。



〈参考テキスト〉

『エチカ』- スピノザ
『中動態の世界』- 國分功一郎
『はじめてのスピノザ』- 國分 功一郎
『100分de名著– エチカ』- 國分 功一郎



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