生きるちから
きれいなもん見ても、きれいなぁって思えない言えない時もあった。
きれいなもんが目の前にあっても気づくことさえできない時もあった。
そこから旅はつづき
今度はあたりまえを、あたりまえにありがとうと言える喜びを知った。
きれいなもん見て、きれいなぁ。うれしいなぁ。って想えることは歓びだった。
なんにもなくても、ここに愛しさや嬉しさ、尊いもんは大なり小なりあってね。
なんにもなくても、分かりやすくきれいなもんがここになくても、笑って息して生かされていることを知った。
また旅はつづき
今ここにありがとう。感謝してます。って言えるようになった。はじめはそんな風に思なくても、毎日毎日自分に言い聞かすように言いつづけた。
そしたら、それが呼吸するかのように自分に馴染んで浸透した。きっと、それぐらい自分を変えたかったんだと想う。ほんまに繊細すぎて生きにくかったからね。
そして旅はつづき今ここ。
きれいなもんとは反対にあるもの。対極にあるもの。自らそれは選択しない、むしろここ数年避けていた環境に身をおかせてもらうことを自ら選択した。
このフェーズにきたかと、冷静に微笑みながら自分をみてる日々。
そして、日々のひとつひとつの出来事やうまれる感情、つい相手の言葉や他者の行いに反応しちゃった自分と対話しながらも、気づかないうちにこの数年間でものすごく成長させてもらったんだなぁって、全部のご縁に手を合わせたくなったんだ。
自分のこうしたい!これがいい!これをやってみたい!そうやって自分をとことん満たすフェーズを超えて、そればっかりでは息しあえないことも学ばせてもらった。
やってみる。自分の気がすむまでやってみる。そうできる環境にも感謝がうまれて大きな気づきと修正と成長がもたらされ、またひとつふたつと自分を知ることができる。
己を知る。
生きるとはひたすら自分を知ることなのかもしれない。それは表層にあるものよりも、もっと深い深いところまで。
きれいなもん、みたいもの、やりたいこと、その対極にいる時こそ、幅広く視点高くおおらかで穏やかな器の広さと寛容さ。受けいれ力と自分の捉え方が試される。
わたしは、言葉だけの頭でっかちな生き方在り方を選択したくないから、いつも自分の心・身体・思考・魂・五感すべてをつかって実験しながら変化変容を楽しませてもらってる。
旅をつづけてきた今。捉え方見方しだいで、なんでもきれいなぁ。しあわせやなぁ。ありがたいなぁ。って言えるおもしろさを身につけた。
そんなのできっこないって反発してた頃もあったけど、やっぱり素直にそれを実践しつづけたらほんまにそうなってく。はたからみたら、かっこ悪くてダサくてさ、何度も転んで起き上がってを繰り返しながらもね。
どんな世界や、どんな環境、どんな人だってそこにはそこの想う愛があって。
交じり合うことのないかなしさや苦しさ、反発しあって理解しあえないもどかしさや跳ね返される恐さや寂しさ。そんなものも32年間なりに味わってきたし知ってるからこそ、
溶けあって交じり合う美しさややわらかさの悦びがわかる。本当にうれしいんよね。
何よりも、誰といてもどこにいても、何をしててもしてなくても、どんな物を食べてどこで暮らしていたとしても、自分への喜びと〝生きやすさ〟〝息やすさ〟とゆうプレゼントをもたらせてくれた。
生きるちから。
どこへ行ってもやっていける。
そう自分のことを自分で信頼できる。
信じて頼る。
私とわたしがどんなときも共に生きあって、自分らしさなんてあってないようなものだけど、今日想う〝わたし〟をケラケラ笑いながら穏やかに息して、凪のような心の平穏さと共に今を生きるんだ。
それが生きる表現であり、今のわたしが想う生きる歓びなのです。
いつもありがとう。
今日もありがとう。
🫶
ありがとうございます🥰