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重い教科書に思う

 先週、学校の新学年がはじまり、子どもたちが教科書を持ち帰ってきました。昔、僕が使っていた教科書とは異なり、教科書は大型化していて、紙面はフルカラーに近くなっており、1冊1冊がとても重くなっています。
 中身を見てみると、ITや金融教育に関する記載が大幅に増えており、物事について深く考えさせるコーナーや、参考事例も数多く掲載されています。副教材として、地域の身近な職業を紹介するような冊子もあり、こちらもフルカラーで教科書ほどでないにせよ、それなりのボリュームがあります。
 調べてみると、小学校の教科書については、僕のころはA5サイズだったのですが、平成に入り低学年からB5サイズに置き換わりはじめ、平成17年度にはすべての学年でB5サイズに移行したようです。傾向としては、中学や高校も同じはずであり、資料集などは、以前はB5サイズであったところ、A4サイズになっており、全般的に大きく、重くなっています。
 いろいろ詰め込みたいという、政治的な思惑とか、キャリア教育を若いうちから行いたいという思いはわかりますが、教育現場があまりに多くのことを求めても、物を言う学識経験者とか政治家は、それぞれの立ち位置を強化するための提言とか主張はしても、それをすべて消化することの困難さには思いを致しておらず、何となく事務補助を付ければ回るだろうという程度にしか考えていませんし、現場に近い行政サイドも、できませんとは言えないため、何となく詰め込んでやったふりをしている、そうしたケースが多いように思います。
 また、子どもたちは小さいころから多くの情報を入手できる環境にあり、情報に渇望しているわけではなく、また、大人が建前の話をしたところで、子どもの人生に責任を持っての話ではなく、本音のところは中学受験の過熱化とか、テレワークで二極化する働き方に現れていて、そうした情報は親を通じて肌感覚で伝わっており、教育現場の知識伝授の場としての存在感が低下していることは否定できないと思います。
 中高一貫校などは、中学で配布される数学の教科書などは、進度の関係で一度も手を触れることなく一年を終えてしまうこともざらにあり、結果的に公費が無駄遣いされている面を子供たちも感じ取っているようです。
 地方政治におけるなり手不足も、地方の議員では何かをタダにするとかお金を配るとか駅や道路を誘致するとか、後先を考えない、即物的な話しかできず、しかもそれは議員だけで実現できるわけもなく、今は下手に有名にならなくても、多くの人に影響を与えて、しかも稼げる方法はいくらでもあるので、敏感にこうした点を感じ取っている面も、自分も含めた大人たちは、建前はともかく、本音のところではしっかり受け止め、向き合わないと、実効性のないことを積み重ねている間に、どんどん国の相対的な地位は低下していくように思います。

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