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自分の現在価値から遡及評価される

 学校の卒業アルバムというのは、もらった後は、だいたい実家に置きっぱなしであり、実家で見返すこともなく、子どもがそのステージに来た時に、ああ、そういえばと、僕自身のものを見返して、当時の記憶を呼び覚ましています。

 呼び覚ます記憶は、うすぼんやりと靄がかかっている状態であれば、そんなに悪いものではないですが、掘り返すと多くは黒歴史で、それも高校→中学校→小学校と進むほど、黒歴史の度合いが強くなっていきます。

 とはいえ、結果的に、ギリギリのところでステップアップできたことが多く、途中、かなり高いところにジャンプしようとしたときは、そこへの飛び移りは失敗したものの、ただ、そのこと自体は外形的に評価されるところに置かれ、その後のフィルタリングでも参照されて、無駄ではなかったという総括ができるようになっています。

 黒歴史は、どの時代にも、多かれ少なかれ存在しているのですが、表層には現れず、近親者で共有する第二層において、価値観の相違から黒歴史扱いになっていることがいくつかあり、一方で、第三層といえる、自分の墓場まで直行のネタは芳醇だったりして、そこを考えると、第二層のスポット的な黒歴史とか、価値観の衝突による黒歴史扱いのイベントの存在は、仕方ないなと考えてしまいます。

 今を生きる僕にとっては、物質的にはお金に不自由しないとか、精神面で人間関係が良好であるなど、悩みが少ないことも大事なんですが、それ以上に、自分の存在価値を自身が実感し、他者からも求められる自分であり続けることが、少なくとも僕には何より重要です。

 過去の事実は不変でも、常に現在価値から過去は再評価され続けることになります。これは他人もそうですが、自分は一番シビアであり、過去に綺羅星のような実績を上げてきても、現在価値に結び付いていなければ、卒業アルバムの中の絵に過ぎず、逆に同情の種になってしまいます。

 貴金属や宝石と比べ、生身の人間の価値の変動は大きく、自分の価値を高めようと、どれだけ宝飾や過去の勲章で飾り立てても、自身の現在価値との落差が大きいほど、痛々しいものはないわけですが、
別な見方をすると、種の保存の役割を担う一個体に、ここまで付加価値を生み出せる社会を作り上げてきたのは、人間しかないわけですので、現在価値を高め続けることに面白さを見出し、年齢や環境を言い訳にせず、一日一日を大事に過ごしたいと思います。
 

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