見出し画像

人それぞれの「耽る」時間

 昨日は電車で出かけた際、某国立大学の空手部の学生の集団と一緒でしたが、一人が集団から離れて、本を読み耽っていました。チラ見すると、安部公房の「他人の顔」という文庫本で、僕は知らなかったのですが、戦後の名作みたいですね。

 最近、スマホ使っている人しか、車内で見かけないので、この、文庫本に「耽る」という行為、久しぶりに見て、新鮮な思いがしました。
 本を読むことに耽るというのは、この「耽る」という言葉の使い方としては、思索に耽ると並ぶ、もっとも上品な部類であり、むしろ、本に対してそこまでのめり込むということ自体が、うらやましくもあります。

 「耽る」という行為は、「耽溺」という言葉があるように、理性を超えてズブズブとはまってしまう面があり、貴重な時間もこの「耽る」ことにハマりこんでしまうと、あっという間に1時間、2時間と浪費してしてしまいます。

 もちろん、人間の欲求を満たすことは、ストレス解消には大事なんですけど、本来は短時間で離脱できるところ、長時間そこに、あえて滞在する、たしかに精神的な充足感はあるのかもしれませんが、一時的なもので、時間を使えば使うほど、後悔の度合いが高くなります。
 一方で、タスクとしてこなしていることに比べ、本能的欲求に近いため、生きている実感を味わえる面もあります。
 おそらく、人生の過ごし方として、「耽る」ことに時間を費やすことの内面での葛藤は、墓場まで持っていくような気がしますね。

 「耽る」ことにも実は体力と気力、時には財力も必要で、前者の二つは、老病により叶わなくなることもあり、人生の中でできる期間は、案外限られているかもしれない、罪悪感も抱えながら「耽る」ことも多いわけですが、少なくとも他人に迷惑をかけない限り、そこは許容されても良いのではないかと、自分に言い聞かせています。

 ただ、理性の岸を離れた場所での遊びであり、往々にして過ぎたることになるので、何らかの衆人環視による抑制は必要、この辺、自分で書いていても、僕の中にある「耽る」は、何らかの抑制を利かせないと際限ないので、解き放ちつつ、やはり縛りたい、この葛藤が常にありますね。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?