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本の中の世界の人と再会する

俵万智さんの「青の国 うたの国」という本を読了しました。
 

この本は、詩人の俵万智さんが、宮崎で暮らした(今は仙台在住)素晴らしき日々をエッセイと短歌で綴った、洒脱な一冊ですが、その中で、「なぜ愛の不時着を何度も見たいのか」について語ったくだりがありました。

1回目は、ストーリーがどうなるかという興味に引っ張られて、無我夢中のうちに終わる。が、2回目以降は結末も知っているわけで、「なぜ何回も見るの?」とよく聞かれる。一番似ているのは、子ども時代の読書だろうか。同じ絵本を繰り返し読むのは、ストーリーを知りたいからではない。ページをめくるのは、登場人物に会いたいからだし、絵本の中に広がる世界に身を置きたいからだ。その感覚に近い。

俵万智「青の国、うたの国」(ハモニカブックス)

最近、銀河英雄伝説「野望編」を再読しています。夏頃に、本編全10巻のうち、残りの9巻は再読終了したのですが、第2巻にあたる「野望編」だけは家の中で行方不明になっていたのですが、最近、引っ越しに向けて整理している過程で、発掘されました。

ふつうに考えると、続きもので途中を抜かして読むなんてことは、あり得ないわけですけど、銀英伝は十数回と反復再読しており、ストーリー自体は頭に入っているわけなんですよね。

ただ、銀英伝は登場人物も多く、それぞれの立ち回りはいちいち味わい深いものがあり、何気ない台詞の一つ一つも琴線に触れまくりで、自分の人生における経験の蓄積とか感性の変化で、受け止めが変わるから、何度読んでも飽きないのだろうと、考えていたのですが、

この、俵万智さんの語る「ページをめくるのは、登場人物に会いたいから」というところは、まさにこの銀英伝を再読しようとする僕の心の内にある、見えざる内在的論理を発見した感じで、何か、これまで発見されていなかった法則を見出したような、気持ちになりました。

特に、第2巻の、クーデター発生後にヤンとシェーンコップの間で交わされた会話は、本の中の一場面なのに、リアル人生でその場に居合わせたような思いがあり、再読するたびに、強い既視感を覚えます。

この一年のことでさえ、あまりにも多くのイベントが続々と発生したため、去年の夏頃の出来事などは、何か遠い昔の、そんなこともあったよな的な、薄ぼんやりとした彼方の情景になっていますが、
銀英伝の世界は、30年の歳月を経ても、鮮やかに蘇るのは、自分のその後の人生、生き方、行動指針に大きな影響をあたえ、人生の場面場面で、銀英伝の登場人物たちの生き方や言動を、自身の行動規範として使いこなしてきたことで、自分と一体化しているからかもしれません。

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