映画PERFECT DAYSは究極の自己中サイコパス的モテ男の満足を描いた作品であって清貧などを描いていない。

この映画は宣伝ポスターが与える印象と実際の内容は全く違うものだ。それについて具体的に述べる。好き放題にめちゃくちゃ書くので、先に謝罪する。誠に申し訳ありません。

私が役所広司氏の出演している映画PERFECT DAYSを見たのは2か月くらい前のことで、もっと早くこれを書くこともできたが少し時間をおくことにした。理由の1つは作品について反芻する時間が必要だったことと、もう1つは上映中の映画にケチをつけるのは申し訳ないので、今も少しは上映館はあると思うが、だいたい終わったみたいに思うので、そろそろ書いてもいいだろうと思ったということがある。

当初、私はこの映画に強い違和感を感じ、どう説明していいのか分からないもどかしさがあった。というのも、映画の宣伝ポスターを見れば、役所広司氏が演じる中年か初老の男性がたとえ貧しくても孤独でも読書したりして満足して生きているという印象を与えるものであったが、実は違うということに映画を見て、すぐに気づいたからだ。

まず最初に私が感じたのは、この作品は男のマウント取り合い三回勝負を描いていて、その全てに役所広司が勝つという、おもしろくもなんともない、何のために作ったのか理解に苦しむというものだった。

この三回勝負を整理したい。

一回目の役所広司への挑戦者は柄本時生である。真剣かつ誠実に都内の公衆トイレ掃除という仕事に打ち込む役所広司に対し、後輩の柄本時生は全くやる気がなく、仕事中も動画を見ていて、無駄口を叩きたがる「今時の若者」イメージの増幅を狙った役どころである。柄本時生が才能のある役者なので、ぱっと見ただけで無能なのが分かるように演じてくれている。最近の若者は日本が衰退する中で成長しているため実に真剣に生きていて真面目なので柄本時生みたいな若者はむしろ貴重種なのだが、にも関わらず、役所広司の引き立て役を完璧にこなしている。仕事に対して不真面目で無精ひげの柄本時生はそれだけで全く魅力を感じない人物だが、何とかしてガールズバーの店員を攻略したいと思っていて、しかもそのための資金を役所広司から借り、返さないという、全く見るべきところのない男だ。その柄本時生は涙を流さんばかりの悲壮な表情で次のように叫ぶ「お金がなければ恋愛もできないなんて!」私はこのセリフを聞いた時、もしかすると無能で気持ち悪い若者に世の中の暗部や誰もが目をそらす真実を語らせるというような効果を狙っているのだろうかと考えた。遠藤周作先生の『沈黙』で弱くて卑怯なキチジローが実は人間の闇を一身に背負う深い存在であるのと同じようなことを想像した。

だがそれは全くの的外れな想像であった。ガールズバーの店員の女性は熱心に通う柄本時生よりもたまたま出会った役所広司の方を気に入ってしまい、いきなり役所広司のほおにキスをして去って行く。柄本時生の完全敗北であり、役所広司はこの第一回戦で悠々と、赤子の手をひねるがごとくにガールズバーの店員を巡る争いに勝利するのである。

即ち、真実のモテ男である役所広司は黙って座っているだけでガールズバーの店員に惚れられるのだが、負け組の柄本時生は金を払っても無駄であるという、役所広司最強伝説が描かれているのであった。

この第一回戦を見守る中で私は更にもう1つ、とあることを想像し、間違えた。役所広司にはほとんどセリフがなく、柄本時生からの問いかけにもまずまともに応えようとしない。私は孤独に生きることを選んだ男がコミュニケーションを拒否しているのだろうかと想像し、コミュ障の初老男がそれでもつましく、且つ自分だけの世界に満足を得る人生を描く映画なのだろうかとも思ったのだが、第二回戦以降、役所広司はよくしゃべっている。役所広司は無口なのではなく、仕事ができない柄本時生と話したくないのであって、職場の後輩を嫌いだと言う理由で無視するというあからさまなパワハラがなされていたのだということに、映画を観終わってからやっと気づいたのだった。

第二回戦の挑戦者は役所広司の父親である。まず役所広司の姪が家出して役所広司のボロアパートにやってくる。役所広司は柄本時生に対する時のようなぶっきらぼうで陰険で意地悪な態度をせず、にこやかで優しく、笑顔でよく話して姪をエスコートする。しかし密かに姪の母、即ち自分の妹にこっそり電話を入れて迎えに来させるという展開になる。母が迎えに来た時、姪は残念そうに役所広司にハグするのだが、迎えに来た麻生久美子も役所広司にハグしてもらう。母娘ともに役所広司に沼っており、両方にハグしないと収まらなかったということだ。この前後、麻生久美子が父が認知症を患っているが会ってやらないのかという趣旨のことを役所広司に問い、役所広司は断るというシークエンスがある。ありがちな父と息子の相克であってある意味村上春樹的だが、姪と妹で沼ってきているこの状況は役所広司が確執のある父にも勝利していることを暗に示している。麻生久美子たちが立ち去るとき彼は悟られないようにしつつ泣くのだが、ここでなぜ泣くのかしばらく私は考えてきたのだけれども、今の段階での暫定的な答えは、「俺はお前たちを捨ててでも好きな生き方を選ぶんだ。すまねぇ」と泣いているというものだ。決して過去に立ち返りたいわけでも妹と姪に未練があるわけでもない。「ああ、俺って自分の好きに生きるために家族を捨てる悪い奴」と思って泣くのだから自己陶酔の涙である。

三回戦の相手は三浦友和で、ラスボスらしくなかなか手ごわい。役所広司が通うスナックのママである石川さゆりと三浦友和がお店で抱き合っているところを偶然見てしまい、彼は心が壊れ、ハイボールの缶と普段吸わないタバコをコンビニで買い墨田川あたりの岸辺で荒んだ心を慰めようとしているところに、なんと三浦友和が追ってくるのである。三浦友和がずっと尾行していのか、それは倫理的にゆるされるのかという疑問は一旦忘れて続けるが、三浦友和は自分の生命があまり長くないと告白し石川さゆりのことを頼むと役所広司に託す。これまでの1,2回戦で圧倒的勝利を得てきた役所広司が、今回は敗退かと危ぶまれたが、実は不戦勝だったのだと告げられる場面である。自信を回復した役所広司は、明るく振る舞い、慰めの言葉を述べる。非常にいいことを言うのではあるが、ここまでしゃべれるのだから、やっぱりあんた、柄本時生のことはわざと無視して陰険なパワハラしてたんだろ。と私はどうしても言いたくなる。それはそうとして、役所広司は病気で長くない三浦友和にかげふみをして遊ぼうと提案し、三浦友和がどれほど弱っているかまであぶり出す展開になっているので、私はなんと残酷な役所広司一人勝ち映画なのかと思い、困ってしまった。

ここまで見てきて分かることは映画のポスターや前評判からはつましく孤独にしかしその境遇に満足して生きる男の姿を描いた作品のように思えてしまうが、決してそんな謙虚な内容ではなく、本当にかっこいい役所広司のような男はいかなる状況下でも自ずと勝利者になるのであり、役所広司は生まれながらの勝者・スーパースター・絶対的ヒーローなのである。ということだ。

こんな映画みたいか?

と私は今も書きながら思っている。

私は役所広司という映画俳優は宝石のように素晴らしいと心から思っている。役所広司氏が出ているというだけで、その映画はきっと一定のクオリティを保っているに違いないと私はどこかで思い込んでいる。
だが役所広司氏には立派な人間しか似合わないという弱点がある。
『関ケ原』悪役徳川家康を演じたが、最後まで本当に悪役なのか、悪役だと思って見ていいのか私は迷いながら見た。オンラインなどで10回くらい見て、悪役だと思って見てもいいのだと自分を納得させたが、それくらい、この人は立派な役しか似合わないのである。そのため、PERFECT DAYSでも、映画の本質が理解されにくいという面があるのではないかという気がする。

私の知っている人が数人、SNSで孤独でつましくともそこに幸せを見出す素敵な映画。のようなことを書いていたが、違う。ただ黙々と生きているだけでスパイダーマンやルパン三世のようにかっこよく勝利していく非現実的な男を描いているのがPERFECT DAYSなのである。

そのように思うと、役所広司が植物を愛して部屋に植物部屋を用意し24時間照明を当てていることについてもちょっと違った見方ができるはずである。室内植物に24時間照明を当ててはいけない。光合成をしない時間も必要だからだ。だが彼は24時間照明を当て続けている。なぜなら徹底した自己中心サイコパスなので、植物を自分の望んだ速度で成長させたいからだ。

植物の写真をファインダーを覗かずに撮影する趣味についても敢えて偶然性を活用した芸術活動にしているにもかかわらず、気に入らないものをやぶっているのは、自分の気に入らない偶然性を否定したいからだ。

最後に役所広司は朝日を浴びて涙を流すが、いろいろ自分の思い通りにしていることへの歓喜の涙だと私は今の段階で暫定的にではあるが結論している。

以上、3つの戦いについて述べたが、補足的に音楽のこととスカイツリー、それからカメラワークについて述べておきたい。

音楽はアメリカの懐メロを使っている。ドイツ人の映画監督がアメリカの懐メロを使っている。最初に流れるのはアニマルズのザハウスオブライジングサンだが、その他にもいろいろ流れる。ヨーロッパ人はアメリカ人とアメリカ文化が大嫌いなので、自分の大切な作品にアメリカの懐メロを使うことはまず考えられない。ヨーロッパ人の感覚で言えばアメリカの懐メロなどダサすぎてとても聴いていられないものばかりだ。フランスのリュックベッソンがスティングの音楽を使っているが、彼は『LEON』のようなダサくて倫理的にも問題のある英語の映画を金儲けのために撮っている男なので、今回の場合は議論の対象にならない。リュックベッソン以外で、ヨーロッパ人作った映画でアメリカの懐メロを使っていると言うのは、他に例を知らない。あるかも知れないが、極めて例としては少ないはずである。リュックベッソンも別に懐メロを使っているわけではない。

では、何のためにアメリカの懐メロを使うのだろうか?ヴィムヴェンダース監督の内面を勝手に私が想像するに、敗戦国日本の世界一の都市東京にアメリカの懐メロは似合いすぎると思ったのではないか。確かに画面と音楽はとてもよく合っていて、様になっているのも事実ではあると思うのだ。さすがは『ベルリン天使の詩』を作った人である。この映画で天使は破壊されたベルリンのために涙を流し、最後には人として生きることを選ぶ。そういった複雑なことを、監督は東京にはアメリカの懐メロが似合いすぎるほど似合うと描くことで表現しようとしたのではないかという気がする。

作品内では何度となくスカイツリーが出てくる。スカイツリーそのものは良い。あれは大変に良い建物だと思う。だが、出すぎである。そして、その都度、役所広司が満足そうにスカイツリーを見上げるのであるが、そのような場面は1,2度あれば、スカイツリーいいよね。ということだと了解できるが、何度も出てくる。おそらく東京都のプロモーションと映画作品がタイアップしているということがおぼろげなかがら想像できてくる。制作陣の名前を見ていると、アルファベットにはなっているが、ほぼ全員日本人である。資本・プロモーションなど全て日本側が準備し、ドイツ人の映画監督を招いて撮らせたのだなということが想像できる。


私が唯一、この映画で気に入ったのは、高速道路をしつこいくらいに撮影するカメラワークだ。東京の高速道路はおもしろい。世界中に高速道路はあるが、東京の場合は、狭い範囲に網の目の如くに高速道路が走っていて、二重になっていたり立体交差になっていたりする場所がたくさんあって、まるで遊園地のようにおもしろい。とにかく世界のどこの国と比べても高速道路の密度が高い。惑星ソラリスという古いソ連映画でで東京の当時作られたばかりの高速道路を延々と撮影している場面があるが、撮影したくなる気持ちは分かる。実におもしろい。この映画でもヴィムヴェンダースは延々と高速道路を撮影させている。これは良かった。

本当に最後に最後、役所広司の口髭について指摘して終えたい。日本人で口髭をする人は少ない。欧米でも少数派である。映画の中で役所広司は毎朝、実に幸せそうに口髭を手入れをしている。おしゃれなのだと言えばそれまでだが、日本人にとってあまり一般的ではないことだし、彼は毎日孤独に公衆トイレを掃除しているのだから、誰に口髭を見せるわけでもない。にもかかわらず、丁寧に幸せそうに口髭を整えているのである。私はこの口髭に、この映画の主人公の性格や人間性が込められていて、観客に分かってくれよ、気づいてくれよと言っているような気がしてならない。

好き勝手に書いて、本当に申し訳ありませんでした。私のことを嫌いにならないでください。

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