ギリシャに始まる悲劇の歴史を終わらせる宣言? 神戸連続児童殺傷事件モデルに現代の悲劇再構築 悪い芝居vol.29 喪失と希望の悪い芝居ラストプレイ「ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター」@新宿シアターTOPS
殺人事件の加害者が刑期を終えて釈放された後、書いた手記を読んだ被害者の親族(殺された女性たちの夫と娘)が加害者を襲い殺そうとする。悪い芝居「ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター」で山崎彬は現実に起こった事件をモデルにした出来事に記憶喪失を組み合わせて、複雑な犯罪絵巻を構築していく。この手の犯罪の連鎖を描けば後味の悪い作品になってもおかしくないところをハッピーエンドといえば言いすぎだが、ほろ苦い部分は残しながらもぎりぎり共感できるような作品に仕立て上げたのは山崎彬の卓越した手腕だと思う。それを支える俳優たちもいいが、特によかったのが多田直人である。過去の記憶を失った人という簡単ではない役柄を繊細かつ丁寧に演じて、この舞台に深みを付け加えた。
この事件のモデルとなったのは神戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」であろう。事件の様態は違うが、「少年A」が医療少年院を退院した後手記を出版したことや劇中に登場する「疑似家族」の更生プログラムを手掛けた女性の存在も共通しており、明らかにこの事件を下敷きにしていることは間違いないだろう。
以前、山崎と同世代の作家たちが集まり、こまばアゴラ劇場で「キレなかった14才♥りたーんず」という演劇イベントを開催したことがあった。その際にイベントの趣旨として「少年A」と彼らが同世代であり、自分たちはたまたま演劇と出会い事件を起こさなかっただけだとして、同時代に生きるものとして事件に向き合わざる得ないということが掲げられていた。山崎はその時のメンバーには入っていないが、やはり同世代の作家として、この事件の意味合いを自らのものとして引き受けなければならないという気持ちがあったのではないか。
ただ、連続児童殺人であった「酒鬼薔薇事件」とは違い、で「ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター」で描かれた事件では自宅で主婦が殺される事件に変更されている。これは事件をより普遍化する狙いとこの物語が最初の殺人者と彼が精神障害を理由に無罪あるいは軽微な罪状の判決を受けたことを無念として、その復讐として事件を引き起こす男の物語の二段構えとなっているからだ。
しかもどちらかというとこの「ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター」ではその二つが交互に並行して描かれているだけではなく、復讐者が犯行前後の精神的ショックで記憶喪失となってしまい、自分の過去を求めて苦悩するという話からスタートする。物語の中で「白昼夢の快物」と呼ばれている「少年A」をモデルにした男が物語の核にあるのは間違いないが、冒頭近くに書いたように多田直人が演じた復讐者の男が主人公と言ってもいいほどだ。
この作品が面白いのは物語の趣旨からしておおよその筋立ては観客の誰もが予想できるという前提のもとで、記憶喪失で過去を失った男の過去を男に調査を依頼されたテレビクルーが探っていくという謎解きの構造になっていることだ。
この物語の展開は明らかに演劇の世界で古典となっているある物語を想起させる。それはギリシア悲劇の代表的な作品とされるソフォクレスの「オイディプス王」である。「オイディプス王」も主人公であるオイディプスが自ら自らが治めるテーベを覆う災厄の謎を突き止めようと探求を行い、その結果その原因が父殺しを行った自分だったと突き止めてしまうという悲劇を描き出し、そのプロットから一部の評者からは世界最初の探偵小説とも評されている。もちろん、演劇史上で最初に登場する悲劇の代表作である。
「ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター」では叙述的に同時並行で語られるそれぞれの出来事の時間軸が意図的にあいまいに描かれる叙述トリック的な仕掛けが多用されていて、その結果把握していると思っていた起こった出来事の時系列での流れを何度も考え直させられるような瞬間が繰り返された。物語の進行の最中には描かれていることのいくつかは実際には起こっていない空想上の出来事なのかもと思わせたが、最後まで見終わってみるとよくある夢落ちなどに終わらせずに何が実際に起こったのかが分かるようにうまく着地させていたことに感心させられた。
今回の作品では特設サイトに「かつての悲劇の続きを描こう。その先にある希望を目指して。悪い芝居Last pray、これは最後の祈りだ」「その先にある物語」など「最後の祈り」「その先にある希望」の言葉がどうも気になった。そういうことは具体的にはいっさい書かれていないのではあるが、今回の劇場があの新宿シアターTOPSで三谷幸喜率いる東京サンシャインボーイズが解散をした最終公演を行った劇場であることも気にかかっていて、この公演を最後に解散あるいは無期限活動休止に入るのではないかと思ったからだ。
しかし、作品を実際に見終わった今考えているのはまったく逆でひょっとしたら山崎彬は「喪失と希望の悪い芝居ラストプレイ」の公演表題のように実際に現実に起こった事件と演劇の祖、悲劇の祖でもある「オイディプス王」も下敷きとしてこの1作で「悲劇」の歴史を終わらせるラストプレイ(最後の芝居)にするぞという壮大な意気込みのもとに作品創作に取り組んだのではないかと思われてきた。それが成功したかどうかはともかく、「悲劇でありながら悲劇でない」というような観劇後感を抱かせる不思議な舞台となっていたのは間違いない。
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