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平成の舞台芸術回想録第二部(4) 劇団☆新感線「阿修羅城の瞳」

人気劇団の劇団☆新感線の演目がここで取り上げられるというのはこれまで取り上げてきた演目の流れから不思議に感じる人がいるかもしれないが、平成の30年間というスパンで日本の現代演劇を考えると劇団☆新感線というのは絶対に落とせない存在だと考えている。
 ただ、どの作品を取り上げるべきかということになるとなかなか難しい。個人的にはおポンチ路線のひたすらバカバカしい作品*1やミュージカル路線*2の作品もそれぞれ新感線らしくて好きなのだが、ここでは「いのうえ歌舞伎」の代表作で映画化*3もされた阿修羅城の瞳を選ぶことにした。

1987年の初演だが、2000年8月に観劇したレビューがあるのでこれを再録してみる。

 「阿修羅城の瞳」(2000年8月観劇)は87年に初演された作品の再演で、劇団★新感線の芝居で1つの系譜を形成する「いのうえ歌舞伎」シリーズに属する作品である。パンフにあるいのうえひでのり自身の言葉を引用すれば「いのうえ歌舞伎というのは、ケレンや見得などの歌舞伎的フレーバーを新感線流に取り込んだチャンバラ活劇」ということになる。もちろん、この言葉は「阿修羅城の瞳」にもそのまま当てはまるのであるが、「阿修羅城の瞳」が他の同系譜の作品に比べて、特筆すべきなのは単にフレーバーというだけではなく、芝居の中に登場人物としての鶴屋南北を媒介として、南北による歌舞伎の名作「四谷怪談」を縦横に引用。その劇構造を換骨奪胎して「四谷怪談」とはまた違った物語に消化させていった中島かずきの作劇術における見立ての趣向が面白いのである。
 ビジュアルを重視した演出と勧善懲悪のストーリー、スターシステムの芝居作り、さらに下座音楽としてのロック音楽とことさら「いのうえ歌舞伎」を持ちださなくてもエンターテインメントとしての新感線が歌舞伎との類縁性を持った延長線上で芝居作りをしているのは明らかなのだが、「阿修羅城の瞳」がその中でも特別なのはその芝居に鶴屋南北をからませていることであろう。
「こうした物の化どもと人間たちとが、シノギをけずりあっている世界、つまり“もののけぶり”と“もものふぶり”とのプロレスリングの世界なのだ。大江戸版黙示録の世界といってもいい。鬼のいれば夜叉もいる。奇形もいれば、半陰陽もいる。英雄もいれば凡夫もいる。乞食もいれば、上臈もいる。幽霊もいれば化物もいる。佞人もいれば聖者もいる。羅刹もいれば菩薩もいる。美男美女もいれば悪人悪女もいる。(中略)彼らは、いずれもが、ほとんどこの世のものならぬ相貌を帯ながら群集し、ひしめきあっている。そして彼らは、おのがじし擬態につぐ擬態、変相につぐ変相をくりかえし、その手腕のほどを誇示しあって乱舞し、跳梁している。怪物集団万国博のお祭り広場――それが南北の舞台である」 

(「百鬼夜行の楽園 鶴屋南北の世界」落合清彦著)

いささか長々とした引用となってしまったが、鶴屋南北の舞台について書かれた上記の文章をあえてここで取り上げたのはほかでもない。笑いにまぶすことで目立たなくはなってはいるがこうした要素はそのまま劇団★新感線におけるいのうえひでのり中島かずきの作り上げる世界を書いたと考えてもいいほど南北と新感線には類縁性がはっきりと感じられるからだ。 

冒頭に見立ての面白さと書いたが、今回の再演において、芝居を一層面白いものとしているのはキャスティングの妙であろう。これはあくまで偶然なのであろうが、今回、主役の市川染五郎は94年(シアターコクーン)、92年(歌舞伎座)と2度の「東海道四谷怪談」の舞台を経験している。これは若手役者としては珍しいことで、というのは演目として有名な割には「四谷怪談」という芝居は歌舞伎で上演されることは意外と少なく、「阿修羅城の瞳」が初演された87年以降では5回しか上演されていない。もちろん、出演した際に染五郎が演じたのはお梅と直助で、伊右衛門幸四郎橋之助がそれぞれ演じている。だから、この芝居の中でさわりとして語る染五郎伊右衛門役は初役(?)には変わりないが、今回の芝居とほぼ同じ時間に歌舞伎座で上演しているキャストは6年前のコクーンにほぼ準じたものであるから、染五郎がこの芝居に出演していなければ今回、八十助がつとめた直助を再び演じていた可能性はかなりあるといえそうなのである。 さらに今回の舞台で興趣が増しているのは花組芝居加納幸和が出演して、鶴屋南北を演じていることで、加納自身も花組で「四谷怪談」を幾度も上演しており、この芝居とは浅からぬ縁があるのはもちろんだが、座付き作家南北とその一座に役者としてみをやつしている主人公、病葉出門とによる劇中劇という趣向で、「四谷怪談」(記憶がさだかではないが蛇山庵室の場)のさわりを演じてみせてくれるのが嬉しい。というのは、こういうことでもなければ実現不可能な夢の競演だからだ。 ここのところなどもっと見ていたいのにと思わせて、ほんの少しだけ見せるというところにいのうえの美学が垣間見える気もするのだが、こういう本編のストーリーとは離れた楽屋落ち的な楽しみというのも南北の当時の歌舞伎の魅力だったらしい。

 この他にもこの芝居ではあちらこちらに「四谷怪談」からの台詞の引用が鏤められている。染五郎が花道から去る場面での「首がとんでも動いてみせるワ」というのは伊右衛門の決め台詞としてよく知られるものだ。 こういう趣向としての引用だけでなく、いわば本歌取りのように本編にも関係してくるものには「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢わんとぞ思う」の引用がある。これはやはり、蛇山庵室の場の冒頭の伊右衛門の夢の場面に登場する岩と伊右衛門のやりとりに出てくるもので(これは歌舞伎座ではシーンがカットされていて残念ながらでてこない)、これは最初、浅野内匠頭の辞世の句と取り違えるというようなギャグとして登場するのだけれど、最後には出門と闇のつばき(富田靖子)をつなぐ重要なキーワードとしても再度登場することになる。この歌自体が百人一首にある歌を南北がいわと伊右衛門のやりとりに見立てとして取り込んだものであるから、 ここでは中島かずきがそれをまた引きするという重層的な引用の構造になっている。

キーワードとしてこの和歌を使っていることや出門がたびたび伊右衛門の台詞を語ることからはっきりと分かるのは南北を登場させたり、劇中劇として南北の芝居を見せるというのにとどまらずに「四谷怪談」と「阿修羅城の瞳」がそれよりも密接な関係にあるのはここで中島は出門/闇のつばきの関係を「四谷怪談」の伊右衛門/お岩の関係に見立てていることが窺えるからだ。 もちろん、それは直接的な形を取るわけではなく、関係は一見、原形をとどめぬほどに改変され、操作を受けてはいる。それでも、「阿修羅城の瞳」に「四谷怪談」の影を探すことはそれほど難しくはないのである。そのひとつが物語の進行にともなうヒロインの変容(お岩は幽霊に、つばきは阿修羅に)。物語において1、ヒロインは人間を超えたものに変容する 2、死によってしか達成されぬ愛の成就(岩は伊右衛門を呪い殺す、出門もつばきを殺そうとする)。 3、両者に共通する鏡のモチーフ。お岩は鏡で自らの醜い姿を見て悶死するが安倍晴明のあやつる破魔の鏡(名前は違ったかも)が鬼に威力を発揮するのは「鬼が自らの醜さを見て悶死するから」であった。 4、髪の関連するモチーフ。「四谷」お岩の抜け落ちる髪、遺品となる櫛。「阿修羅城」さかしまの城から下りてくる髪、つばきのカンザシ。 こうしてみると両者の間にはイメージの上で様々な照応関係が存在することが窺えるであろう。もっとも、人物造形の面からいえば出門が心に暗闇をかかえながらも歌舞伎でいえばあくまで立ち役的な2枚目の範疇におさまるのに対して、民谷伊右衛門は色悪の代表であるという違いはある。「阿修羅城の瞳」においては古田新太が演じた安倍邪空の性格の方に典型的な色悪的人物像は映されているといえるかもしれない。
さらにこちらは再再演となった2003年の公演の日記での感想である。この時は2000年版で富田靖子が演じた闇のつばきを宝塚出身の天海祐希が演じた。2000年8月の再演に引き続き、今回は再々演。病葉出門を演じる市川染五郎ありきの企画ではあるが、今回は新感線初出演の天海祐希がよかった。天海が演じた闇のつばきという役は前回、富田靖子が演じた。その時にこの役はなにか様式的な演技を経験した役者でないと難しい役と書いた記憶(8月23日の日記)があるが、今回の演技では天海は宝塚のトップを張ってきた経歴はダテじゃあないことを見事に見せてくれた。男役と女役では勝手が違うだろうし、本人の個性も当然あるとは思うが、森奈みはると今回の天海祐希を見たら、「清く、正しく、美しく」っていうそのキャッチフレーズとは正反対だけれど宝塚の人は意外と新感線に向いているのではないかと思った。歌もうたえるし、ダンスも踊れる。ちょっとした時に見せる流し目の妖しさなど宝塚のスターとしてしみついた本能のようなものじゃないかと想像されるが、それが普通の芝居ではわざとらしくなっても、新感線の世界でははまるのだ。天海祐希はNODA MAPなどにも何度も出ているのだが、今回の方がずっと生き生きしていたし、本人が本来持っている「普段意外と普通なのだが、スポットライトの下で演じるとスターの輝きを発する」という魅力を存分に発揮できていたからだ。
 天海に限らず適材適所という意味では今回のキャスティングはよかったんじゃないかと思う。ただ、染五郎の出演も今回で3回目。前回はいのうえ歌舞伎に歌舞伎の御曹司が初出演、しかも歌舞伎の殿堂のひとつである新橋演舞場での公演ということもあって、花組芝居加納幸和鶴屋南北に起用して、劇中劇で染五郎と夢の競演をさせるなど遊びを重視しながら「いのうえ歌舞伎」の「歌舞伎回帰」を感じさせるところがあったが、今回はその印象は薄れた。大南北が役者あがりではなく、大道具の出身だったというのはかなり有名な話で、史実からすれば小市慢太郎の方が南北を演じるには適当だったかもしれないが、小市がだめということではなく、趣向として加納の芝居を存分に堪能したので、それがなくなったのは少し残念であった。
 ただ、その辺りの趣向が背景に退いた分だけ、出門とつばき、出門と邪空というこの物語の主軸となる関係の構図はソリッドに描き出されている。これは今回邪空を演じた伊原剛志がストレートに出門への愛憎を演じたということにもあるかもしれない。古田新太がこの役を演じた時のような色悪的な清濁併せのむような妖しい魅力は伊原にはないのだが、その分、出門、つばき、邪空の物語内での関係は符に落ちるものとなっていた。
 新感線組では橋本じゅんは前回公演の渡辺いっけいにも感じたが、あの役ではちょっとしどころがない感じ。一方、桜姫の高田聖子はよかった。やはり、こういうお転婆な娘役をやらせると抜群である。この役は前回、森奈みはるが演じた時も脳天気な姫役をうまく演じ、あたり役だと思わされたのだが、さすがホームグラウンド。インパクトにおいて高田に一日の長があったかもしれない。そういえば、高田聖子を新感線の舞台で見たのはずいぶんひさびさだという気がする。

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*1:ひたすらバカバカしい「直撃!ドラゴンロック~轟天」もいいが、何と言っても、「ガラスの仮面」のパロディーでもある「紅天狗」が大好き。

*2:天草四郎を描いたロック・ミュージカル「SIROH」は傑作だと思うが、この作品で新感線の代表作とはいいにくい。

*3:
阿修羅城の瞳(予告)

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