私が後期クイーンを代表する作品だと考えているのが、「十日間の不思議」である。ライツヴィルものの第3作だが、この作品において後期クイーンの最大の特徴と私が考えている「神話的モチーフ」がはっきりと姿を現す。「災厄の町」「フォックス家の殺人」を論じた際にクイーンがライツヴィルものと言われる連作に王家の悲劇というギリシア悲劇を思わせるような筋立てを与えたとしたが、同様なことは「十日間の不思議」にも当てはまる。ただ、この作品がそれだけですまないのは筋立てだけではなく「十日間の不思議」という表題からも分かるようにこの作品が旧約聖書の様々なモチーフをなぞって作られていることだ。
実はこの作品の旧約聖書がそうであるようにクイーンが好む作品を覆いつくすような神話的なモチーフに対する親和性というのが私が「後期クイーン論」で提起し論じたい問題なのである。
後期クイーン的問題*1といえばミステリ批評の世界では法月綸太郎が提唱した2つの問題、第1に「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」、第2に「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」が問題とされることが多い。すなわち、ここではより端的に言えば「創作における名探偵の不可能性」が問題とされることが多いが、私の考える後期クイーン問題は少し異なる。
文庫本の解説でこの作品はこのように紹介されているが、この作品も「災厄の町」「フォックス家の殺人」同様に“ライツヴィルの王家''における悲劇の物語として語られる。それゆえ、全体としてリアルな筆致の小説というよりは神話的あるいは寓話的な虚構の色合いが強い。そうした中で作品そのものが宗教(特にキリスト教)に基づく、イメージの羅列で彩られていることに気が付くが、そのことは最後に起こる決定的な事件(殺人)に至って、そのすべてを「見立て」的な構図と解釈した探偵クイーンの推理で完結したかのように感じられる*2。ところがこの推理は誤っていて、事件が一段落した後でクイーンは別の真相を導き出すのだ。
が、私がこの作品について感じたこの作品での「モーゼの十戒」導入への疑問はそれがなぜ「モーゼの十戒」なのかということが、作品の内部の論理だけでは論証しきれないことにあるのだ。実はライツヴィルものではないがやはり後期クイーンの作品である「悪の起源」についての論考で以前こんな風に分析したことがある。
ここに書いたように「十日間の不思議」が文字通り「不思議」なのは犯人がこのような行為をする理由が狂気でも、論理的合目的性でもないことだ。そこには作家クイーンがこのようなモチーフを弄ぶのは神話的な思考に対する嗜好が根底にあるからではないかと考えるしかないのだ。
実はここで記したような分析は「十日間の不思議」にもほぼそのまま当てはまる。こうした後期クイーンの特徴について本稿ではライツヴィルものを中心に後期作品を再考していくなかクイーンについて次に述べるようなことを論証していこうと考えている。
十日間の不思議〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
十日間の不思議
simokitazawa.hatenablog.com
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*1:simokitazawa.hatenablog.com
*2:クイーンは事件の全体が「モーゼの十戒」に従って構成されていることから犯人を論証する