沖縄への船旅-何もないことの眩暈(めまい)-
自分の居場所がないように感じていたころ、よく沖縄に行っていた。1人暮らしをしていたのに、まるで家出でもするような気分だった。
調べると飛行機より、船が安かった。大阪の南港から夜の10時頃に出て、翌翌朝に那覇港に着く船だった(残念ながら今は就航していない)。
大きくて立派な船だったが、乗客はいつもまばらだった。
客室で寝るのが嫌なのか、甲板にテントをはって寝ている者がいたりした。飛行機じゃなくてわざわざ船で沖縄にいくのは、ちょっとした変わり者ぐらいなのかもしれない。
昼ご飯を食べて甲板に出ると、ヒマを持て余している者が三々五々、ただ、ぼーっと海を見ていた。船の上で時間を持て余すと、海を見ているしかないのだった。
海を眺めるのにも飽きてくると、そのうち誰かとしゃべりたくなる。
そうして船の上でいろんな人と出会った。船で出会った人の中には、その後の東北の震災で家族連れで避難してきたり、連絡を取り合う仲になったりと、長い付き合いになったものもいた。これは船の醍醐味だと思う。
中でも印象に残っている、ある金髪青年がいる。見た目も少年のようで、少ない乗客の中で目立っていたので声をかけたのだった。
なんでも彼はアメリカの高校を卒業して帰国し、関西にあった実家に帰ると、実家が空家になっていたそうな。
そして大阪の祖母のもとへ行くと、両親が沖縄に移住したことを聞かされて、その足で沖縄行きの船に乗ったとのことだった。
なんだかハチャメチャだ。こんな人との出会いがあるから、船旅は面白い。
それにしてもなんて両親だ。
でも聞けばなるほど、というか、関西のある山奥で子供の頃、自給自足のような暮らしをしていたそうだ。父親と夏休みには毎年のように、自転車で北海道まで行っていたという。そりゃ知らない内に沖縄に引っ越していてもおかしくはないと思った。
しかも、父親は実の親ではないそうだった。
「アメリカでマリファナを吸ったんだけど、あれ?これ子供の頃、北海道で吸ったことある、なつかしいって思った。」
「オヤジめー。俺にマリファナ吸わしてたんやなと思った」
とか、なんて親だと思ったが、船の上でするには、それくらい世間離れした話がいい。
アメリカは旅行したことがあったので、お互い話題もつきなかった。海を見ながらの、いい暇つぶしだった。
沖縄に行ってからどうするの?と聞けば、先のことは分からないと言っていた。アメリカの大学に行きたいけど、金がないんだよと言っていた。
沖縄では特に何の予定もなかったので、彼の両親の新しい家の近くに行ったら連絡するから、一緒に飯でも食おうと約束した。彼は船でそのまま八重山まで行き、自分は那覇港で降りた。
航路は台湾まで続いていた。
コザ市とか、慶良間諸島や、沖縄に行くといつもあちこちふらふらと旅をした。
慶良間の集落のある家の青い壁一面に、白いペンキで
「なにもないことの眩暈(めまい)」
と書いてあった。岡本太郎の言葉だそうだが、その言葉が沖縄の強い陽射しと青い海とともに印象に残っている。
船着き場で船を待っていると、沖縄のオジイが話しかけてくる。
「おまえ独り者か?」
「沖縄で嫁見つけたらいいさー。」
「国際通り往復したら見つかるさー。おじいも昔はよくやったもんさー」
目の覚めるような青い海を眺めながら、そんな話を聞いていると、小さな事にこだわっている自分がバカバカしくなってくる。不思議と元気になってくる。
八重山諸島に着くと一番に彼に連絡をした。待ち合わせに彼は、若い美人のお母さんと一緒にやってきた。
「息子がいろいろとお世話になりまして」
なんて会話をひと通りして、二人で海の見える食堂へいった。
新しい実家にはかわいい山羊がいた。とか慶良間の海が綺麗でよかった、とかお互いに四方山話に花を咲かせた。
これからどうするのか決まった?と聞くと、彼はこっちのホテルで働いて金を貯めてアメリカの大学に行くよ、と言った。
透き通るような青い海に、キラキラと陽射しが眩しかった。
沖縄に来るといつも元気をもらう。ここで暮らそうとは思わなかったけど、ここにはいつ来ても自分の居場所があるように思った。
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