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言葉をあつかう


書名:ひらがなでよめばわかる日本語のふしぎ 著者:中西 進 出版社:小学館  発売日: 2003年6月1日 ‎ ISBN-13:9784093874526

この本は、まだ読んでいる途中。
ある人に勧められて手にした本で、少し読んでは別の本に手を出したりしてなかなか読み進められていないまま、数か月経っている。

持ち歩くバッグに入れたり、時には机に置いたり、それでもその時々に読まなければいけない本が出てきたり、あらたに買った本に手を伸ばしたりと、この本を途中にしたままになってしまっている。

そういうことは日常茶飯事で、数年越しに読み終えるものや、いまだに1ページも開いてない本もたくさんあるから、それは特別なものではない。
少し違うとすれば、積読の肥やしになることもなく、その手前、読んでいない本と読んだ本の間を浮遊しているということ。
実のところ、そういった本はあまりなく、何かの事情や思いつきで突然「読んでいない本」から「読み終えた本」になっていくことが多い。
だから、この浮遊している本というのはめずらしい。

なぜこの本がそんな位置になっていたのか。
一言で言えば、ずっと気になっていたから。もしくは読まなければと思っていたのかもしれない。
こう書くと、なにか特別なことのように感じてしまうが、そもそも本を買うということは、そういう心積もりでいるわけで、いま手元にある本はすべてそんな動機があってここにある。

なぜこの本について書こうと思ったのかといえば、
この本を勧めてくれた方が先日亡くなられたから。
そのTさんとは、それほど長いお付き合いではなかったし、頻繁にお会いすることもなかった。
Tさんにとっては、多くの人間関係のなかで、最近出会った人の一人だったと思う。

でも、私には特別な存在だった。
5年ほど前に仕事で一度お話をしたり、その前後で共通の知人のパーティーでご挨拶するようなことはあったが、2年ほど前に一緒に仕事をする関係になった。

ただ、私はそのずっと以前からTさんのコラムや手掛けたコピーライトを目にしていた。
Tさんは、あるブランドの商品タグに記載するコピーの監修を長くやっていて、そのブランドで働いていた私は、店頭で毎日そのコピーたちを目にしていた。また、同じブランドで10年近くコラムを執筆されていて、それが始まった当初から、私はTさんのコラムを読んでいた。

とはいえ、コピーライトもコラムも名前が出ることはなかったので、その当時の私は誰が手掛けたものなのかを知る由もなく、ただただそれらに触れているだけだった。

それから数年後、仕事で初めてTさんにお会いした時に、私が目にしていたタグ、読んでいたコラムを手掛けていることを知った。

その時の興奮は忘れられない。
まるで長年のアイドルに出会ったような、
ずっと解けていなかった謎が明かされたような、
ずっと覆っていた靄が晴れるような、
嬉しさと驚きと爽快さが一度に押し寄せてきたあの感覚は
今でも覚えている。

さらにその数年後に、一緒に仕事をする機会に恵まれる。
私にとって、これは偶然というよりは奇跡と感じるもので、もっといえば、運命や必然なのではと勝手に勘違いしてしまうようなうれしいものだった。

自分のような何の実績もない人間が、
長く良い仕事をしてきた人たちと同じ空間にいる、もしくは言葉を交わすだけでもありがたいこと。
それが定期的にあり、同じ仕事に携われるということはちょっと考えられないことだった。

こういう時代だから、オンラインでのコミュニケーションが多く、直接お会いするのは数回しかなかったが、それでも毎週のようにそういった人たちの言葉にじかに接することは刺激そのものであり、私の考えや思いを聴いていただくことは、生徒と先生の関係のような緊張感とうれしさがあった。

その仕事の中で、Tさんが手掛けたコラムを朗読するプロジェクトをやらせてもらうことになり、個別にやり取りをするようになった。

そのプロジェクト自体にはいろいろな要素があるものだが、
その根底には「言葉」を読むのではなく、「言葉」を聴くということの可能性を探るというものがある。

そもそも「読書(黙読)」はとても個人的な作業で、他人の思考やそこで表現されていることを自分のペースで自分なりの解釈をもって理解していくもの。
かりに音読であったとしても、それも個人的なもので、誰かに聴かせるものではない。

それをあえて「声」にして言葉を届ける。
それはどういうことなのか。読書と何が違うのか、そしてどんな作用があるのか。それを確かめたい思いがある。

そして、なによりもTさんのコラムをもっと多くの人に知ってもらいたいという願いがある。

このプロジェクトは人によっていろいろな解釈があるだろう。
それでも私が考えるに、「言葉」本来の機能を蘇らせることになるのではと思っている。

広辞苑(第三版)をひらくと、「言葉」とは、
゛意味を表すために口で言ったり字に書いたりするもの。”
とある。
私はこの順番が進化の順だと思っていて、まずは音としての「言葉」があって、そのあと文字(字)が生まれたのではないかと思っている。

頭の中にあるもの(伝えたいこと)を「言葉」というもので表現することで、他者に伝えることができる。
表現方法としは、絵であったり、音楽であったり、動作であったり、いわゆる芸術と言われるもの全般がある。
その中でも「言葉」というのものがもっともポピュラーであり、身近なものだろう。

コラムに関しては、先に文字という形で「言葉」にされている。
それを朗読というフォーマットで「文字」から「声」に再変換する。
そういう工程を経て表される「言葉」は、きっと文字の時と違う印象になるのではないではないだろうか。
読む「言葉」と聴く「言葉」では何かが違うはずという予感のようなものが私にはあった。

視覚情報である「文字」は、その形からも意味を伝える要素がある。
分かりやすいのは「漢字」で、その一文字自体に意味を含んでいて、
文章とは別のレイヤーで意味や情報を伝えることができる。
その点、聴覚情報である「声(朗読)」は、その要素が削ぎ落される。
すべては「言葉」の音で、意味を表す。
だから、聴く人は自分の頭の中でその音を「言葉」として再構築し、時には「文字」としてイメージすることが必要になる。

分かりやすく言えば、
「ひらがな」として聴き、さまざまな形の「文字」に変換する
ということ。そうやって「言葉」を理解していく。


これに気づかせてくれたのは、Tさんだった。
直接そのようなことを言われたわけではない。
この本を勧めてもらい、
日本語は「ひらがな」から始まっているということ、そのひらがな自体に意味が込められていることを教わった。
「漢字」は海外から入ってきた文化であって、後付けで「ひらがな」に漢字を当てがったという話も教えてくれた。

Tさんは、
現代人は「それはどういう漢字で書くの?」と聞いてしまうが、
そうではなくて、「言葉(ひらがな)」そのものを受け取ることが大切だと
おっしゃっていた。

今思えば、
この話は当たり前にしていることも、疑ってみたり、なぜそうなのかと探ってみる、もしくはその経緯を考えることの大切さを教えてくれたように思う。


最後にTさんにお会いしたのは、半年前のインタビュー収録だった。
そのあとはメールのやり取りだけ。メールで体調を崩され入院されること、年明けに病室の窓から見た富士山が美しいことを綴っていらっしゃった。

インタビュー収録時に、まだまだ訊きたいことがたくさんあるから
第2回もやりましょうと約束をしていた。
その時に教えてもらったこの本についても、いつか話をしようと思っていた。辞書を「読む」という話もじっくりしたかった。
なによりも、「言葉」とはどういうものなのかについてもっと話を聞きたかった。


すべてがこれからだったような気がする。
ご高齢であったことを思えば、だからこそ積極的に動くべきだった。
どこかで、関係が築けたことに満足している自分がいたのかもしれない。
いつでも連絡が取れることに甘えていたのかもしれない。
今となっては、それは後悔でしかなく、どうしようもない。

Tさんが気に入っていた、そして私が最初に出会ったコラムに
「恩送り」というものがある。
恩送りとは、恩返しではなく受けた恩を別の人に送ること。
Tさんに恩返しすることが叶わなくなったいま、私ができることは恩送りをすること。

私にはTさんと同じことは出来ない。
でもTさんが遺したものを多くの人に届けることはできるかもしれない。

それをすることが、唯一の慰めになるのだと思う。


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