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「2021.3.11.に思うこと」

清水屋商店BOOKS 本の紹介 Vol.2

2021年3月11日。東日本大震災から10年目の節目の日です。
僕自身がこの災害に直面したからなのか、大人になってから経験したからなのか、こういった節目の日以外にも、時折あの時のことを思い出します。
特に身近なひとに大きな被害が遭ったわけでないのですが、強い印象を持ち続けています。
亡くなられた方は、今年3月1日時点で1万5899名。行方不明者は2526名。
とても大きな数字ですが、それが僕に強い印象を与えているわけではなさそうです。
阪神淡路大震災も強い関心とともに記憶しています。直後に関西に暮らすことになったので、その後の話や実体験を直接聞くこともありましたし、地元メディアでも多くの情報が発信されていました。どちらの震災もテレビでその光景が中継されていたので、映像として頭に残っていることも大きいのだと思います。
テレビの弊害はよく言われることではあるけれど、洪水のような情報の中でとても繊細な視点で記録されているものがあります。もちろん、新聞や書籍、WEBでも情報にもそういったものは上がってきますが、映像を伴う情報は私たちに大きな影響をもたらすのではないでしょうか。
震災に関することで僕が反応してしまうのは、身近な方を失った人の記録です。人は必ず死ぬものであって、それに不思議さや疑問を持つことありません。予め定められていることであり、社会としても経験を重ねている当たり前のことと言えます。
ところが、その予期から外れた「死」というものが存在しています。人はこれに遭遇した時に様々な反応や解釈をするものだと思うのです。解釈については、宗教や思想の影響下にあるのでしょうが、反応についてはそういった知性や理性を超えたものがあるように、僕は感じます。
考え方の異なるものがあることを承知で書きますが、その点で「自死」はそれとは少し異なるように捉えています。その理由については長くなってしまうので省略しますが、少なくても本人自身には予期していたことであることは間違いないことだと考えています。
亡くなられた本人もその人に関わる人にとっても、日常がふっと消える、もしくは別の日常になってしまうということの衝撃は計り知れないものではないでしょうか。衝撃と書きましたが、それは音もなく前触れも気配もなくやってくるのだと思います。すっとその先がなくなってしまうという表現のほうがよいかもしれません。
そして事実に触れた直後から、否応なしにその厳然たる事実を受け止めることをしなくてはならない。悲しみ、怒り、諦め、痛み、苦しみ、虚しさ、寂しさ、ありとあらゆる感情が心の中に生まれてきます。亡くなった方のことを思えば、無念さが迫ってくることもあるでしょう。
そういったときにどうするべきなのか、僕にはわかりません。人生の中で何度か間接的にそういった状況に接することがありましたが、僕自身には何の答えもなく、あらゆる言葉が空虚に感じられ、口を紡ぐことしかできなかった。
もしかすると「時」にしか解決ができないのかもしれない。そう思うことさえもありました。
今回紹介する本は、


『さよならのあとで』
著者:ヘンリー・スコット・ホランド (著), 高橋和枝 (イラスト)
出版社:夏葉社 (2012/1/27)
価格:税込1,430円

という本です。
東日本大震災の翌年に刊行されたひとつの詩を翻訳したものです。
本の形態になってはいますが、普通に文字組みをするのであれば、おそらく見開き1ページで収まるとても簡素な詩です。
私がこの本に出合ったのは2018年ごろでしたので、発売されてからずいぶん後になってからです。とても短いものですが、誰かを失うことに対する癒しとなる詩です。


ページ構成がとても考えられていて、ページをめくって読むという動作をしっかり計算しているように感じます。誰もがこの詩をゆっくりと体にしみ込ませられるようになっています。


原文のタイトルは「death is nothing at all」。直訳するのであれば、「死はまったくなんでもない」でしょうか。そういう意味では、この本のタイトルは意訳ですが、この詩の意図をとてもよく表していると感じます。
くわしくはこの詩を読んでいただくしかありませんが、一つだけ言えることは、言葉の無力さ感じていた僕にとって、この詩の持つ、やさしさに包まれた強さとそこに秘められた意思に救われたということです。
死者が残された人に向けて語りかける短くもはっきりとした思いが、文字として綴られています。もとは特定の誰かのために書かれたものなのかもしれません。でも、なぜかすべての人に当てはまるように感じられます。自分自身が死んだときはきっとそう思うのだろうか、そしてあの人はそう思っているのだろうか、と本の中で生と死のはざまを浮遊するような不思議な感覚にもなります。


詩には、
「私のことをこれまでどおり、親しい名前で呼んでください。」
とあります。


生と死という埋めることのできない別れがどうにもできない事実としてあるのに、この一文に触れると、そうすることで別れが別れではないように感じます。
日頃、名前は記号の要素であったり事務的な識別の要素であったりと、それ自体に意味を感じることがないように思います。でも、誰かと別れてしまったとき、名前というものはとても強い意味を持つようになるのかもしれません。
別れてしまったあとに、その名前を呼ぶことで、残されたものにささやかな癒しを与えてくれるのかもしれません。
東日本大震災では、身元不明の遺体がまだいらっしゃるといいます。
どうぞ、いつの日かその人たちに名前が戻りますように。

おわり

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