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「積んどく、または積読」

清水屋商店ブックページ vol.4

最後に本を買ったのはいつですか? 僕は今日です。
1日おきに本を買っているようなときもあるくらい、本を買ってしまいます。理由はもちろん読みたいから。ただ、それだけの理由で買うところまではいかないわけで、そこにはもう少しだけ複雑な要素があります。

本に関わる仕事をし始めた頃に気づいたことに、書店に並ぶ本は想像以上に新人代謝が激しく、欠品や絶版が多いということがあります。10-20代のころに、文学系の古典や名作を読むことが多かったので、よりその衝撃が大きかったのだと思います。

ある日どこかの書店で何となく手に取った本を買わずに帰ったとします。その1年後にその本が必要になったとき、同じように書店の棚からその本を手に取れる可能性は思ったよりも少ない。イメージとしては、そのシーズンの服を買うのと同じかもしれません。つまり来年のその季節には同じデザインのものはないということです。本のジャンルにもよりますが、どんな本でもおおむね当てはまることです。

2017年のデータでは、日本国内で1年間に7.5万タイトルが出版されました。毎日200タイトルの本が新たに書店の棚に並べられた計算です。これがどういうことかについては、ちょっと想像する必要があります。
ネットとは違い、リアルストアの書店は空間に制限があります。棚の数が増減することはないわけですから、毎日200タイトルを新たに棚に入れるということは、物理的にそのスペースを作る必要があるわけです。そのためには昨日まで並べていたタイトルを棚から外す以外に方法はありません。それが毎日行われているわけですから、いつの日かあなたが棚に戻した本だっていつ外されてもおかしくないのです。
そう考えると、僕には本との出会いは一期一会だと思えて、つい買ってしまうわけです。

そして若いころ、思うように本が買えなかったことも大きな要素です。人生って皮肉なところがあると言いますが、僕にとっては「本」「時間」「お金」の関係性が皮肉な状況になっているように思います。
「本」はいつの時代も世の中にあふれていますが、「お金」と「時間」は反比例しがちな気がします。若いころは持て余すほどの「時間」をあるのに、肝心の「お金」がない。でも大人になるにつれて「お金」は持っているけど、それを使う「時間」がないということになるように思います。
若いときは書店に入ると、厳選に厳選して1冊(しかも比較的安価なもの)を選んで買うしかないのですが、仕事をしはじめて収入が安定してくると、本を読む時間が取れないし、そもそも忙しさから書店に足を運ぶこと自体が少なくなってしまいがちです。だから、僕はその反動でついつい本を買ってしまう。
これって、ただの屁理屈や言い訳と思うかもしれませんね。       たしかに人にこんなことを言って理解された例がありません。それどころか説教されるのが常。
でも、本に関わる仕事をしてからはこうも思うのです。つぎにこの本に出合うことがないのであれば、いま手元に置いておけばいつでも読めるようになると。そう、これは先行投資だと。                  わかっています、それは詭弁だと言うのでしょう?


ここで、本に関わる仕事を通じて気づいたことをもうひとつ。
それは、どんな空間でも本棚があると人は足を止めるということ。
ネコにマタタビではありませんが、よっぽど人は本が気になるみたいです。この因果関係については、僕には証明する術はありませんが、思うところはあります。
まずは物的なボリューム感。それは重厚さと質感です。大量の紙の束と圧倒的な文字が持つ魅力が人を惹きつけると思うのです。たぶん、その本棚を写真に撮って実寸のプリントを壁に貼っても同じことにはならないでしょう。それはスピーカーから流れる音楽よりも生演奏の音楽に反応するのと同じ原理だと思います。これは本物が持つ力だと言えるかもしれません。
さらに本には文字が印刷されています。文字とは言葉を書き表したものですが、それには必ず意味が伴います。つまり、そこに文字があると人は無意識のうちにその意味を読み取るわけです。もっと言えば、読み取りたくなる。だから人は本棚があると足を止めてしまうのではないでしょうか。
よく言われることに、「本は読まなければ意味がない」というものがあります。読むために作られたものが本ですので、これは正論で反論の余地はありません。
でも本の効果や効用までを読書とするならば、ただ読むだけではダメで、その本をきっかけに何かを考えたり、思いを巡らせたり、心を動かされたりすることが大切なのではないでしょうか。そういった意味では、本のタイトルや装丁、目次、あとがきから何かを想起することも本の効用であると言え、読書の一部もしくは読書そのものと言えるのではないでしょうか。

最初に、1日おきに本を買うことがあると書きましたが、買った本をどうしているのかといえば、部屋の中に積んどくわけです。かなり前から本棚には収まらなくなっているので、文字通り床に積んでいます。人が見るとただの本の山に見えますが、僕としては一応分類していて、写真集の山、小説の山、デザインの山といった感じで積み上げています。

昔からこういうことを「積読(つんどく)」と言うそうです。この言い方には、多分に自虐が含まれているように思われて仕方がありませんが、それもふくめて秀逸な表現だと思います。この言い方は、きっと「(あとで読むために)とりあえず積んでおく」「(積んだ本って)けっきょく読まないんだよね」といった複雑な心境から生まれたのではないかと想像します。前向きさと後ろめたさが共存しているところに愛らしさすら感じてしまいます。

というわけで、今回紹介するのは

『積読こそが完全な読書である』
著者:永田 希
出版社:イースト・プレス (2020/4/17)
価格:税込1,870円

という本です。

「積読」というものの肯定を試みるどころか、ひとつの読書として立証しようとする意欲的な本です。
著者は、現代を「情報の濁流の状況」と捉え、だからこそ「積読」が必要不可欠だと言います。その積読も「自律的な積読環境=ビオトープ的積読」が理想的だと説きます。ビオトープとは「ある場所の小さな生態系」を指す言葉で、「他律的な積読環境=情報の濁流」の中にビオトープ的積読が必要だといいます。
言い換えれば、毎日毎時間、テレビ・ラジオ・新聞・ネット・SNS・本という多種多様なメディアからの情報に晒されている私たちにとって、自分で取捨選択した情報を整理保管する必要があるということだと思います。
この仮説を立証するために「読書」という行為を分析していくわけですが、その中でいくつかの読書に関する書籍の説も紹介されています。僕は、アドラーの『本を読む本』(講談社学術文庫)の中にある4つの分類に興味を持ちました。
アドラーは、読書という行為を「初級読書」「点検読書」「分析読書」「シントピカル読書」に区分しました。
それぞれの意味は
「初級読書」=序文からあとがきまで順番に読むこと
「点検読書」=書名、副題、目次などの本文以外を読むこと
「分析読書」=一冊の本を徹底的に読むこと
「シントピカル読書」=複数の書物を横断し、あるトピックスについて横軸         を通すために読むこと
ということです。

そもそも「完全な読書」というものの定義もむずかしいようです。読書といっても、表紙から奥付まで1ページも漏らさずに順番に読むことを読書と考える人もいれば、要点をつかみその著者の考えを理解するとする人や、それをもとに自身の考えをまとめるまでを含めるとする人もいるでしょう。

本という存在はとても複雑なものだと思います。記録物としては、その情報を後世に残すことが重要な役割です。また情報伝達ツールとしては、いかに多くの人に伝達するかが重要な役割です。前者の場合は強度のあるマテリアルが求められますし、後者の場合は使い勝手や価格、流通のしやすさが求められます。

人は何百年も情報を残そうとするとき、石に文字を刻むそうです。たしかに古代より行われていることで、ピラミッドの壁画やロゼッタスターンから校庭の石碑やお寺の墓石があります。たしかに頑強な素材だし刻んだ文字も長持ちしますが、欠点は重くて運べないことと大量生産できないことですし、流通にも不向きです。

一方でたくさんの人に何かを伝えるとき、現代ではテレビやSNSなどデジタルデバイスを活用します。この欠点は、技術進化や水に弱いこと。音楽コンテンツをとっても、この半世紀でレコード→カセットテープ→CD→MD→MP3のストリーミングと大きな変化があり、すでに聴くことが難しいデータもあります。また東日本大震災のとき、津波によりスマホやデジタルカメラ・PCに保存していたメディアは壊滅したと言います。根本的にデジタルは水に弱いのです。

そう考えると、ある程度後世に残したく、あわせてより多くの人に伝えたいとき、最も適したツールは紙の本なのではないでしょうか。
日本では平安時代の書物が残っていますし、明治時代の印刷物は比較的手に入れることが可能であることは、その証ではないでしょうか。

話がすこし逸れてしまいました。積読のことに戻ります。
僕はこの本で紹介されている「シントピカル読書」が重要だと思います。本の中身をしっかり読んで理解することは理想ですし、そのようにして、あるトピックスについて横軸を通すために複数の書物を横断して読むことが「シントピカル読書」なのだと思います。
人は文字からイメージや考えを想起する習性を考えると、たくさんの本に囲まれているだけでけっこうな効用があるのではないでしょうか。
先ほども書きましたが、文字は本文だけではなく、表紙、序文、目次、あとがきにもあります。そこからだって影響を受けるわけです。もちろん、より多くの文字に触れるほうが多くの影響を受けることになりますが、必ずしも量=質ではないと思います。
だれしも読んでみたら思っていたものと違ったという経験があると思います。これって読み切ったからこその感想ですが、裏を返せば、タイトルから何かを連想していたからこそ生まれる差異でもあるわけです。つまり、本文以外でも十分に本の効用があるといえます。さらには、この場合においては読んでしまったことでマイナスの効果があったともいえるのではないでしょうか。そのまま積読していたら、その連想はさらに広がっていき何かをつかんでいた可能性があるわけです。

理屈っぽいことだけではなく、感覚的な効果もあります。たくさんの本に囲まれていると、それだけでなぜだかちょっと賢くなった気分になれる。
これってけっこう重要だと思うのです。大勢の頭の良い人と一緒にいてもそんな気分になれませんし、むしろあらためて自分の頭の悪さに気づいてヤな気分になります。あるいはたくさんのレコードに囲まれているとワクワクはしますが、そのレコードすべてから音楽が流れていたら、たぶん気持ち悪くなります。こんな感じでいろいろ考えてみても、その壮観な景色やボリュームに感動することはあっても賢くなった気分にはならないと思うのです。おそらく、本だけがもたらす特別な感覚です。

人の家に招かれたときに見たいものは本棚で、家に人を招いたときに絶対に見せたくないものも本棚という話があります。むかし好きな子の家に行ったとき、その子の本棚に人気アイドルの写真集やエッセイを見つけて妙にがっかりしたことがありました。僕の知らないその子の一面を垣間見たと同時に、見てはいけないものを見てしまったショックが大きかったように思います。もちろん、その子とはそれ以上仲良くなりませんでした。おそらく僕の部屋ではもっとたくさんあったはず。。。
そのくらい本棚ってその人の内面を強く反映していると思います。きっと、本人が気づいていない何かがほかの人には見えるのでしょう。悪い面を強調してしまいましたが、自分自身で自分の本棚を見ることは別です。自分で集めた本に囲まれることは、自分の中に佇むことだと思うのです。自分の人格を具体化したものが本棚のわけですから、それを見るということは自分を客観視することですし、自身を見つめることになるはずです。
そう考えると、積読は情報が氾濫している世界から自分が気になるワードに基づいてピックし編集することであって、そういった空間を形成することは自身の人格のビオトープを作り維持していくことと言えるのではないでしょうか。
しかも、それはいつでも手にとれるだけでなく、餌をやる必要も水を変えてやる手間もかかりません。なんなら手放してちょっとしたお小遣いにすることもできるし、さらにはいざというときに燃やして暖をとることだってできてしまうわけです。

この本では、積読の後ろめたさを解消するためにいろいろな角度で積読を分析しているのですが、この本のおかげで僕はすこし気持ちが軽くなりました。それどころか、これまでの行いを肯定すらできそうな自信が持てたように思います。
ついつい本を買ってしまう人にとって、きっと一服の清涼剤になるのではないでしょうか。でも一番読んでもらいたいのは、身近に積読する人がいて、ちょっと苦々しく思っている人。
ぜひ読んでほしいなあ。                    おわり

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