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「雨の日におもうこと」

清水屋商店BOOKS vol.9

この季節になると、話題はもっぱら雨。もう少しすると、台風の到来が関心ごとになります。
日常の暮らしの中では、雨はやっかいもので降ってしまうのかそれとも持ちこたえてくれるのかという思いで天気予報をみます。いっぽうで、雨が降らないと農作物は育たないしダムに水も溜まらない。それではそもそもの暮らしが成り立ちません。
これはすこしの矛盾をはらむ思い。これが過ぎると、日本には雨は降ってほしいけど、私のまわりや行く先々では降らないでね、というわがままな発想になるわけです。

人も猫とおなじく濡れるのはいやなもの。ましてや、人には洗濯物が増えたり、増えるのに乾かせなかったりしてうんざりすることもあります。出かけるときに持ち物が増えるわずらわしさもあって、いいことがないように思います。
つまるところ、雨というものは日常の暮らしの中ではネガティブな要素として存在しているのではないでしょうか。

ここまでは一般論。
じつは僕は雨が好きです。厳密にいうと、雨の日が好きです。この季節に生まれたからかもしれません。雨が降り始めると、まわりががっかりする中でしずかにテンションが上がります。

たとえば、防水のしっかりした靴で歩いていて、まったく靴の中が濡れないことに気づいたとき。そういうときは、人知れずわざと水たまりの中を歩いてピチャピチャする音を聞くのがたのしいのです。これをやると、いつも小学生のころ長靴をいいことに水たまりに飛び込む遊びをしていたことを思い出します。その当時から雨なのに足が濡れないことに満足するというかいい気分になっていたように思います。ほんとなら濡れるはずなのに濡れてない!という感動がそこにあるんですよね。これはカッパも同じです。傘をさしていないから濡れるはずなのに濡れてない!となるわけです。
その反対に雨でびしょ濡れになるのもおもしろい。ただ前提として、すぐにお風呂に入れるという条件付きですし、かなり強い雨限定でもあります。そういう雨に出くわすこと自体が貴重で、叩きつけるような雨の中でびしょ濡れになっていると映画のワンシーンのように感じさえします。

貴重な瞬間と言えば、雨の降り始めに巡り合わせるちいさな奇跡もあります。最初の一粒が地上に着地した瞬間と、そこからすこしずつ地面が濡れていく様子をじっと見ているとすべてのことを忘れ、無心になります。
忘れてならないのは、降りはじめの薫り。降る前あたりから独特な薫りがあたりをつつみ、しだいに強くなっていき、やがて雨がぽつぽつと落ち始めるあたりがもっとも薫りたかい瞬間のように思います。もちろん見渡すかぎりの地面が濡れてしまったあともいいものです。ずっと見ていると、ときより吹く風になびいた雨がコンクリートの壁を染めていくさまや風の姿をとらえる瞬間、雲の加減で雨足が強くなったり弱まったりと、一つとして同じ状況がないことに気づきます。
それは音も同じで、降りはじめの乾いた地面にはじく水音、雨は本降りになって地面にたまった雨の中に無数の新しい雨が降り注ぐときの音は無限に続き、止むことがない。この雨音は永遠に聞いていられます。これは砂浜に打ち寄せる波の音とおなじなのかもしれません。海辺というところは無音とは無縁なところです。何千年何万年と一度も波が止んだことはないわけですが、そこにいてうるさいと感じません。煩わしいどころか、むしろ心地よく感じるのはどちらも自然の中で生まれる音だからなのでしょう。


日々の暮らしでは、晴れはヒーローで雨は悪役のような役回りのように思います。
立てていた予定が変更される、楽しみなお出かけが流れる、髪がぐちゃぐちゃになる、足や服が濡れて気持ちが悪いなど、挙げればきりがないほどよくないことが出てきます。要するに面倒くさいことばかりです。これだけよくないことばかりだと、どうしたものかと考えてみたくなります。

雨の日のよくないことを書き出してながめていると、いやだなと思うことは晴れの日との勝手のちがいであることに気づきました。
そう、私たちの行動の基準は晴れが前提になっているようです。晴れの日を基準にしているから、それと異なる事態になるとうんざりするのではないでしょうか。
なぜ、晴れが基準になるのでしょう。パッと思い当たるのは、晴れの日が多いからということ。調べてみると、日本の雨の日はおよそ124日。一番雨が降る富山と石川でも174日、もっとも降らない山梨と岡山で100日と、だいたい1年の1/3くらいしかありません。なるほど、こうなると自然と晴れの日を基準に考えることになります。きっとこの割合はむかしからかわっていないでしょうし、それゆえに習慣的に晴れの日を基準に物事を考えてきたように思います。
とはいえ、それでも3日に1回は雨が降る計算です。人にたとえるなら、それはよく会う友人とおなじ存在。しょっちゅう会うわけですから、見知らぬ他人ではないですし、むしろ友人の中でも気の合うほうでしょう。それならば、悪いところばかりではなく良いところもあるはず。

というわけで、今回紹介するのは2冊の本です。


『雨を、読む。(単行本)』
著者:佐々木 まなび
出版社:芸術新聞社 (2021/4/26)
価格:税込1,980円
雨を、読む。 | 佐々木 まなび |本 | Amazon

『雨のことば辞典 (講談社学術文庫)』
編集・著:倉嶋 厚, 原田 稔
出版社:講談社 (2014/6/11)
価格:税込1,034円
雨のことば辞典 | 倉嶋 厚, 原田 稔, |本 | Amazon

1冊は今年出版されたばかりの本。今回は紹介していませんが、『雨の名前』(小学館)という本が2001年に刊行されています。僕の知る限り、雨の言葉をテーマにした本というのはだいたい10年周期くらいで新しいものが出てきているように思います。そういう意味で、この『雨を、読む』は待望の新作というわけです。この一つ前の『雨のことば辞典』は文庫本ですが、雨の仕組みから言葉まで幅広くカバーした読み応えのある内容です。いずれも3冊ともに出版社が異なり、編集や構成に出版社の個性を感じます。同じテーマでもこれほど違うテイストになるというのも面白いものです。

さて、この2冊を通じて気づくことは、日本人というものはこれほどまでに雨が好きなのかということ。雨ひとつに数えきれない名前をつけ、たくさんの慣用句を編み出したことをとっても、それはもう隠しきれないほどの好きさです。季節、五感の感覚、妖怪、四文字熟語と本からありとあらゆる雨のことばが出てきます。それほどまでに雨は人の想像力を駆り立てるもののようです。これは歴史だけではありません。現代でも歌謡曲やJ-POPのタイトルを見れば、その好きさ加減は収まるどころか、さらに盛り上がっているようにさえ思えます。
思いつく限りでも、「冷たい雨」、「雨のステイション」「ドラマティックレイン」、「雨上がりの夜空に」「優しい雨」「雨の慕情」「みずいろの雨」「雨の街路に夜光蟲」「12月の雨の日」「雨のウエンズデイ」「雨音」「レイニーブルー」「雨待ち風」「雨の御堂筋」「雨音はショパンの調べ」「雨は毛布のように」「雨と泪」「たどり着いたらいつも雨降り」「雨宿り」などなど。

歌詞に雨が出てくるものまで探し始めたらキリがありません。日本人は世界でも稀な雨好きだという話を耳にしたことがありますが、どうやら本当のようです。
なぜ、これほどまでに雨に惹きつけられるのでしょうか。きっと雨特有の空気、ただずまい、音、かおりといったものが影響しているのではないでしょうか。そして、そういったものに敏感に反応する感性が備わっているように思います。その理由は研究者にお任せしますが、わかっていることととして、この地域では万葉集の時代から天候の機微をとらえ、それをたのしむ習性が根付いているというものがありそうです。

万葉集の歌をいくつか見てみます。

(原文)
・今さらに 君はい行かじ 春雨の 心を人の 知らずあらなくに
・この夕 降りくる雨は 彦星の 早漕ぐ舟の 櫂の散りかも
・ひさかたの 雨も降らぬか 蓮葉に 溜まれる水の 玉に似たる見む

(意訳)
・あなたは帰るなんて言わないでしょう、恋人が帰らぬように春雨が降ってくれたのだから。
・この降る雨は彦星が急いで向かう櫂(かい)のしずくなのか
・雨は降らないでしょうかね。蓮の葉にたまった水が玉のようになるのを見たいものです

雨への恨み節も多いのですが、こんなふうに雨をうたっているものもあります。
こういうものにふれて思うのは、それをどのように受け止めるかという心持ちのこと。物事には裏と表があって、どちらも偽りはないのですが180度見え方が違う要素があります。そのどちらを見るのかはその時々であり、人それぞれ。でもどちらもあることを知っていることが大切なように思います。その時々で見方を変えられるほうがおもしろいように感じます。捉え方や解釈の仕方もあるかもしれません。コップの水を見て、あと半分しかないとがっかりするのではなくて、あと半分入れられると先を考えるようする感覚です。


雨=憂鬱な日だけれども、、、、とちょっとその先を考えてみます。
たとえば、晴れの日にすることの反対を考えてみます。

買い物に行かない
図書館に行かない
映画館に行かない
お茶に行かない
人に会わない
ライブに行かない

これを転じると、

料理をする
本を読む
ネットで映画を見る
コーヒーやお茶を淹れる
考えごとをする
音楽を聴く

となります。
なかなかゆったりした一日になりそうです。雨で湿度が高いだけに気持ちもしっとりするので家で好きなことに没頭するというのが良さそうです。イメージとして、外に意識を広げるのではなく内に意識を広げる活動をする日ということでしょうか。こんなふうに、雲の色や雨の湿度に自分の行動を合わせてみるというのも、雨の日ならではの暮らし方なのではないでしょうか。

最後にこんな本を紹介します。


『雨降りだからミステリーでも勉強しよう (ちくま文庫)』
著者:植草 甚一
出版社:筑摩書房 (2015/1/7)
価格:税込1,650円
雨降りだからミステリーでも勉強しよう | 植草 甚一 |本 | Amazon


植草甚一は70年代に活躍したコラムニスト。まだサブカルチャーという言葉がなかった時代にその道を究めた人で、アメリカの映画や音楽に精通した趣味人でもありました。いくつかの逸話が残されています。たとえば、神保町に現れてはタクシー一杯に本を摘んで帰ったとか、家の床が本の重みで抜けたとか、ニューヨークに行く人に手書きで地図を書いてこと細かに行くべきお店を教えてあげたのに、本人はまだニューヨークに行ってことがなかったとか、楽しい話がいくつもあります。書く文章も軽やかで、その独特の語り口調は湿りがち気分のときにもぴったりです。

これから梅雨。最近は街に出ることが制限されていますが、そんな暮らしの雨の日は外の雰囲気にあわせて、しっとり自分ひとりでたのしむ日とするのもよいのではないでしょうか。
雨の日は傘を捨て、家にいよう。
おわり

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