見出し画像

「ボヘミアンガーデン」


清水屋商店BOOKS vol.8

僕の生まれた場所は、住宅と田んぼが入り組んだ土地でした。
子どもの頃はそれが当たり前の風景でしたが、いま思えばいちめん田んぼだったところに徐々に家が広がっていったのだと思います。
近くには新幹線が通っていて、住宅に囲まれ、となりを新幹線が通り過ぎる広い田んぼで走り回っていたのは、あの時代特有の景色だったのだと思います。

その場所はいま、すべて住宅地にかわり、遊んでいた田んぼは老人たちがゲートボールを楽しむ公園になっています。変わらないのは新幹線の高架だけ。自分の原風景が人工物というのもむかしとは異なります。

いま住んでいる東京区内では田んぼを見ることはまずありません。あるとすれば小さな畑でしょうか。そのかわりに、そこかしこで公園に出くわします。いわゆる都市公園といわれるものです。とあるデータによると、都市公園数では東京がダントツの1位らしいです。面積もさして広くない23区ですから、どうりで頻繁に公園を見かけるわけです。


さて、都市ごとの緑地面積の比較データがあります。
2018年時点で、東京は世界の主要都市で25位だそうです。いろいろなデータを見ると、1人当たり45㎡くらい。だいたいパリの1/3、ニューヨークの1/10程度の面積しかないそうです。人口も面積も世界トップクラスの規模にしてはお粗末な数値かもしれませんね。

データから見えてくるのは東京の緑が少ないというものですが、個人の実感とはずれているように思います。日本以外の街に住んだことがないので、さしたる比較にはならないのかもしれませんが、これまでいくつか住んできた日本の街に比べると、緑に触れる機会はむしろ多いように思います。

なぜなのか? 
ここに『植木』という1冊の写真集があります。
東京の下町を中心にフォトグラファーの高木康行さんが撮りためた植木の写真を纏めたものです。
住宅街を歩くと、庭の木や街路樹が目に入ってきますが、足元を見ると軒先に植木が置かれていることに気づきます。それも注意深く歩いているとかなりの確率で出会う。なにをもって植木と言うのかわかりませんが、仮になにかしらの鉢に入っていて道路に面したところに置かれているものとするならば、それは数えきれないほどです。一度だけ、植木の数を数えながら歩いたことがありますが、あっという間に100個になったくらいです。
そんなごくありふれた、でもほとんど意識されていない植木を収めたのがこの本です。


『植木 (単行本)』
著者:高木康行
出版社:株式会社リブロアルテ; 初版 (2021/1/25)
価格:税込3,960円
高木康行: 植木 | Ueki (トートバック付) (bookofdays-shop.com)

昔ながらの和綴じで作られた装丁は、大きく植木と黒箔押しされただけのシンプルで力強さがあります。もともとは2015年にフランスの出版社から刊行されたもので、当時日本では300部程度しか流通しなかったものです。日本人のフォトグラファーが日本の文化を題材にしたものをフランスの出版社が出すという、ちょっと複雑な経緯を持った本ですが、日本の人にとっては何でもないものを海外の人が興味を持つことは多々あるもので、これもその一つの現象なのかもしれません。フランス版も今のものと同じ和綴じのもので、東京の印刷所の制作というかなり凝ったものでした。著者である高木さんは、フランスで出版したのはたまたま興味を持ってくれたのがフランスの出版社の方だったと言っています。
そういえば、2017年に青幻舎から『東京の家』という写真集が刊行されていますが、著者のジェレミー・ステラさんもフランスのフォトグラファーでした。フランス人の観点では日本の日常風景がとても興味深く見えるのかもしれません。
リブロアルテ版は、2015年のものを忠実に再現したものといえます。


植木という言葉は、「植木市」や「植木屋」として目にすることが多いかもしれません。辞書では、「庭や鉢に植えてある木」などと定義されています。そこには盆栽も入るのかもしれませんね。ここでは、庭木と盆栽以外の鉢に植えられた木を「植木」とします。

植木は平安時代には、高貴な身分の暮らしの中にあったようです。能に「鉢の木」という演目がありますので、室町時代には武士の間にも浸透していたようです。庶民の楽しみとして普及したのは江戸時代。たしかに浮世絵にも多く描かれています。こと江戸においては、今の東京と同じように人口密度が高い世界最大都市でしたので、その需要が高かったことがうかがえます。

この需要というのがポイントのように思います。人間には緑が必要だということですし、裕福ではなくでもちょっとした趣味や遊びが必要だということを示しているのではないでしょうか。軒先に植木を並べるという習慣は日本特有のもののようです。
家の前に植木をいくつか置かれているものを目にしますが、早稲田大学教授のブロッソー・シルヴィはこれにはいくつかの要素があるといいます。

1つめはパブリックスペースとプライベートスペースの境界線。これはプライバシーの保護の観点があるようです。

2つめは植物を育てることが好きということ。植物を育てることで四季を感じる楽しさがあると言います。

3つめはまわりの環境を“いきいき”させたいというもの。美しさよりも“いきいき”させたいという意識が強いという点が特徴的だそうです。

4つめは自転車の駐輪を防ぐ、または通る自動車を減速させるために置くというもの。これは実利的な要素が強いですが、それをロードコーンや柵といった無機質のものではなく、生き物である植木を使うところがユニークであるといいます。


4つめは現代における意味合いに思いますが、上の3つは江戸時代にも共通しているようです。とくに3つめは、そこに住む人だけではなく通りかかる人たちにも季節を感じさせてくれるものです。そのほかにも、地域の人たちのコミュニケーションツールにもなっていると言います。季節ごとに咲く花について言葉を交わしたり、育て方について相談したり、人人の愛大の緩衝材のような役割をしている。

あらためて、『植木』を1ページずつめくっていく。
どこにでもありふれた風景。撮られた場所も、並べられた植木鉢も、植えられている植物もマチマチでなにひとつ同じものはない。たんたんと植木だけが写しだされています。そこに人の影もなく、動的な要素はありません。

そのうちにある特徴に気づきます。それは植木の鉢のありよう。
陶器やプラスティックの鉢が多いけれど、なかにバケツや桶、魚を入れていたのであろう発泡スチロールの箱なんてものもあります。よく見れば、置かれている棚もビールケースやブロックをただ積んだだけのものなど自由奔放なスタイル。
ここに本質が隠れている気がします。大切なことは生き物と隣り合って暮らすこと。そしてムダをしないこと。どちらも暮らしの知恵でしょう。
それを両立しているのが軒先の植木たちのように思えます。高木さんはブラジルのアマゾンや屋久島の自然を撮影したり、ニューヨークのコミュニティガーデンを撮ったりしてきたと言います。そんな彼が十数年ぶりに東京へ戻ってきて、撮り始めたのが「植木」でした。

それはかつての東京へのノスタルジーではなく、現代の東京を形成する一つのピースに思えたのではないでしょうか。

東京の公園面積はとても少ないといいます。でも街を歩いているとそんなことを感じさせないのは、むかしから脈々と軒先に置かれてきた「植木」のおかげかもしれません。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?