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「ひかりの写実」

清水屋商店BOOKS vol.10


アナログとデジタルの話はこれまでも語られてきましたし、語る側の思いもあるので優劣がつかない状況なのかと思います。そもそも優劣をつける意味がないようにも思いますが、ここ数年はアナログの再評価が目立つ感もあります。

たとえば音楽ではレコードやカセットテープのリバイバルが話題ですし、本も紙の本の売れ行きが良いようです。たしかにちょっと前ならば、電車の中ではスマートフォンを見ている姿しか見受けなかったのですが、最近はその中に交じって文庫本などの本を読んでいる人を見かけるようになりました。しかも若い人から中年まで女性も男性もへだたりがありません。

生活様式の変容による影響なのか、デジタルデトックスなる言葉もよく耳にするようになりましたが、紙の本への回帰はそのひとつなのかもしれません。
ちなみに、デジタル画面の文字を読むのと紙の文字を読むのとでは、脳の動きが違うそうです。紙の本は反射光として、デジタルデバイスの本は透過光として目から文字を認識します。反射光に対しては左脳が働き、透過光に対しては右脳が働くそうです。これだけでも、紙の本を読むこと自体がデジタルデトックスになりそうですね。さらには反射光は情報処理する左脳が動くということですから、記憶したり考えたりするための情報収集は紙の本にしたほうが良いようです。

アナログとデジタルの議論でいつも思うことに、アナログの良さはデジタルによって証明されているのではないかということです。CDが出たとき、ボタン一つで曲の頭出しや再生、リピートも一時停止もできるし、なによりもレコードを裏返さなくても良い利便性に感動しました。それでも技術の進化とともに24bitのものが出てくるなどしていますが、なにを目指しているのかといえば、レコードの音に近づこうとしているように感じます。

音楽媒体の目的は演奏の再現ですから、そのための作業や道具を使いやすくするのは手段でしかなく、まるでその場で楽器が奏でられているように感じられることが目指すべきところです。それならば再現性の高さが重要なわけですから、CDやデジタルファイルがよりレコードに近づいていくことは理にかなっているのではないでしょうか。将来的にはレコードを超える日が来るのかもしれませんが、個人的にはデジタルである以上途切れのない音を作るのは不可能のようにも思います。


同じようなものに写真があります。写真の技術が発明されてから、ガラス板、フィルム、デジタルと記録媒体が変わってきましたが、いちばん画質が高いのはガラス板だという話があります。

200年近くまえに使われていた技術に追い付いていないというのは驚くべきことではないでしょうか。江戸や明治時代に撮影した写真のほうが鮮明で解像度が高いというのはにわかに信じがたいです。具体的な話として、明治初期に日本で撮影された写真のガラス原版を解析している中で分かった事実のようで、湿板写真の画素数は2億画素もあるそうです。
そこまで高精細だとお寺の風景に写るお堂の壁に相合傘の落書きや東京の日本橋の写真に「へのへのもへじ」の落書きが映っていていることが確認できます。これはかなり拡大しても鮮明に細部が確認できるほどの高画質である証拠です。さらにはポートレート写真や風景の中にいる人物の手に指輪が嵌められていること多数確認されたことです。西洋文化の流入によって、男性も女性も指輪をはめていることが流行っていた可能性があるそうです。ちょんまげや着物姿に、革靴や帽子とともに指輪も嵌めていた事実は写真による歴史的な事実の証明と言えるのではないでしょうか。

さて、今回紹介するのは2冊の本です。


『HOKI COLLECTION 10th Anniversary
ホキ美術館10周年記念図録』
出版社:ホキ美術館 (2020)
価格:税込4,400円
ミュージアムグッズ|ホキ美術館 HOKI MUSEUM (hoki-museum.jp)


『ソール・ライターのすべて』
著者:ソール・ライター
出版社:青幻舎 (2017/5/16)
価格:税込2,750円
ソール・ライターのすべて | ソール・ライター | Amazon


1冊目は、千葉市にある私設美術館の図録です。世界でも珍しい写実絵画専門の美術館が千葉にあることを最近知ったのですが、ホキ美術館から出版されているものです。美術館のショップまたはWEBショップで購入できます。
そもそも写実絵画とは何物なのか。美術館のHPには、「1年に数点しか描くことができないほど、画家が時間をかけて1枚の絵と向き合い、こつこつと緻密につくりあげた作品です。その世界を目の当たりにすると、絵は、現実以上に多くのことを語っているのを感じていただけるでしょう。」とあります。僕なりの解釈では、現実以上にリアルな絵画ということです。裸婦、風景、静物といろいろな被写体が“本物のよう”に描かれています。
これはそのような所蔵作品を多数収めた美術館の10周年記念本です。個人所蔵の美術館というと岡山の大原美術館を思い出しますが、ホキ美術館は10年前ほどに作られわけですから、現代に個人で美術館を設立することがあるのかと驚きます。500点近くの所蔵作品を3層構造のゆったりとした回廊形式のギャラリーで展示してあり、とても贅沢な空間です。日本の写実絵画の発展を目的としていることもあり、日本人作家の作品で構成されています。ホキ美術館は写実絵画界のパトロンと言えるのかもしれません。

2冊目は、1980年代に商業写真から身を引いて以後、表舞台に姿を現すことなく淡々と絵を描き、写真を撮り、自分の世界の中で生きていたソール・ライターの日本で開催された写真展の図録として作られた本です。シュタイデル社が出版した写真集『Early Color』が有名ですが、今回は入手しやすい本として青幻舎のものにしました。ソール・ライターは83歳にして初写真集を発表するという異色の写真家です。ひっそりと暮らす中で写真を撮り続け、最晩年に評価された点はヴィヴィアン・マイヤーとすこし似ているようにも感じます。僕が彼の作品で惹きつけられるのは、雨の写真です。雨の日好きということもありますが、それよりも雨と光の透明感や色合いがとても印象的に感じるからです。どういう意図で写真を撮っていたのかはわかりませんが、写しだされた雨粒やそこに反射している街の色、雨に濡れた窓ににじむ街の明かりがとても魅力的に感じます。


この2冊にした理由は写真と絵画を比較したかったからで、各作家の比較ではないのであしからず。ありていに言えば、手元にある本からセレクトしただけということです。

絵画は目にしたものを再現するための技術、写真はその瞬間をありのままに残すための技術と言えます。さらには写真技術ができるまでは、絵画以外にビジュアルとして残すものは存在していませんでしたが、写真が誕生したことによりその役割はとってかわったとも言えるでしょう。でも、いまこの2冊の中にある作品を見ていると必ずしもそうとは言い切れないと思えてきます。むしろ古い技術である絵画のほうが本物のように感じます。

これはどういうことなのか。
僕なりに考えてみると、そのままを写すこととその存在を描き表すことは似て非なるものであるのではないかという仮説にたどり着きました。
見えているものを切り取る写真と、見えているものを再現する絵画。
それぞれに目的が異なるのではないでしょうか。

写真はその一瞬をカメラに収める特性から、どの一瞬を選ぶのかが重要に思えます。その一瞬を捉えられるのか、それとも逃してしまうのかによって、もっともよい瞬間を永遠に閉じ込めるという目的が成し遂げられるのかが決まるように思います。

いっぽう、写実絵画はそこにある人や物をいかに現実と同じように描くのかが重要に思えます。そもそも一瞬で描くことは不可能なので、最初の一筆の時点で被写体の過去を再現することになります。つまりありのままを描くということは物理的にあり得ないわけです。再現されるまでにかなりの時間を要するわけですが、ここに主観や解釈というものが介在してしまうと思われます。でも、むしろその過程があることで、より現実と感じさせるものになるとも考えられます。つまり、どうすればキャンバスの中にそれが実在するように見えるのかを画家が持ちうる知識と技術を駆使して表現しようと意図するということです。


本ではわからないことですが、写実絵画の現物をみるとそのことがよくわかります。
たとえば、三重野 慶氏の「言葉にする前のそのまま」(2017年)という作品。これは清流の中に白シャツの女性が横たわっている構図ですが、そこに描かれる水の流れ、波紋、清流のリアリティには目を見張るものがあります。キャンバスの中に流れる水があるとともに陽の光も感じられます。女性の髪、肌、布のしわも目の前で見ているような感覚になります。ここまで書くと写真のような絵画と思われるかもしれませんが、ぼくにはそれ以上の立体感と生々しさがあるように思うのです。

でも、それはキャンバスから1-2m離れてみるときに感じるもので、近寄って見てみると絵の細部はまったく違うものに見えます。むしろなにが描かれているのかわからないと言っても良いぐらいです。

不思議なことに、至近距離から絵の全体が見える距離まで離れていくと、それは水であり光の反射に見えてきます。その反対をやったり、繰り返したりしてもおなじ。その変容にキツネにつままれたような面持ちにすらなります。

そんなことをやりながら考えていると、そのうちに画家の存在を感じてきます。
そして、彼の眼を通して見た光景が彼の手によって再現されていることに気づきます。


彼は見たものをそのまま描くのではなく、見たものをキャンバスに再現するためにどうすればよいのかを考え、それに基づき筆を動かしている。きっと、どう描けば人間の眼がそれと認識できるのかを追求しているのではないでしょうか。
もしくは、画家というものには目の前のものがすべてこのような解像度で見えているのかもしれません。まるでテレビやカメラのように、画素解像度を変えながらその光景を解析し再構築している。そんなことはありえないのですが、それでもそう考えないと理解できないように思います。
もっと言えば、解析しているのはその物体ではなく光の反射や光度。画家の眼にはプリズムがあり、それを通して頭の中で光の分散がおこなわれ、それを認識したうえで絵として再構築していると思うのです。それは写真家も同じで、彼の場合はそれを瞬時に解析しシャッターを切り、フィルムに取り込むことをしている。

だとすれば、写実絵画の画家も写真家も光の写実をしようとしていると言えるのかもしれません。もし彼らは対象を描く/撮るという手法を使って光を捉えようとしているのなら、それはとても神秘的で神聖な行為のように思えてきます。

こんな考えは妄想としか言えないのかもしれないけれど、私たちが見ていると思っている物事がそのままであるということは誰にもわかりません。白をwhiteと言うように言葉が違っても通じてしまう世界で、一人一人の言葉がおなじ物事を示している可能性はどのくらいのものなのか。むしろ違っていることのほうが可能性のあることではないのか。そんなことを思っていると、言葉ではない絵画や写真はより信頼を置ける表現だと思えてきます。
ましてやこの地球上のありとあらゆるものに注がれる光を捉えようとしているものだとするならば、それはもっとも確かなもののように思えてきます。

おわり

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