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WATCHA学び合いを終えて

なんとなく教育関係者が多いんだろうなと予想はしていたが、想像以上に現職の教員が多く、最初は恐れ多いとも感じた。しかし、教育学部ではない、理系の学部生も参加していたのは仲間を見つけたようで嬉しかった。

現場で働いている方々に比べれば私の意見など素人感覚でしかないが、意外にも肯定的に受け取ってくださる方が数名いた。学校の世界にいると、どうしてもそのことしか見えなくなるので、直接関わっていない人からの意見は貴重だとのこと。現場の先生からも、意外と外部からの意見を欲しているのかもしれない。

例えば、「小中学校においても、大学のように単位制(通信制)にしてみてはどうか。究極は高校・大学ともつなげて学年の壁を取っ払う」という私の持論(https://twitter.com/similarl8/status/1134095067528851456?s=19)を展開すると、納得してくださる方がいた。学習指導要領は度外視するし、少なくとも「教員として働くには」学習指導要領からは逃れられないと葛原祥太氏も話しており、相容れない考え方であるのに。

ここでの「学び合い」の定義。課題を早く終わった子が、課題の終わってない子や理解のゆっくりな子をサポートする。立ったり、声を出したりしてもOKとのこと。よくフィンランドの教育で聞かれる縦割り教育(できる子や高学年の子が、理解のゆっくりな子や低学年の子をサポートする)に近いと感じた。動画で見た限りでは、決められた時間内に、できるだけ全員で協力して課題を進める。一人で集中したい人はそれでもいいとあるが、後の時間で「Kくんは優秀で課題がすぐ終わるが、皆と協力しようとしない。どのようにアプローチすべきか(あなたの意見を出してください)」のような質問があった辺り、どこか集団ありきなのかもしれない。

また、たまたま私のいた班のメンバーだけだったが…「学び合い」の存在意義や利点について話し合う場において、

「やりたいことをやる。やらされていては意味が無い」「大人だって、与えられたノルマや会社の方法に乗っ取って“やらされている“こともある(転職すれば別だが)。どうせ同じ8時間費やすなら、どのように仕事をするのか自分で決められて、望んだ仕事をやるのが一番。子どもも同じ。やらされている学びでは意欲もわかない」「大人になっても“学び合い”は続く。だとすれば、“学び合い”の存在意義は人生を豊かにするためにある」など比較的子どもの心やある意味人権も考慮した意見がほとんどだった。こうした教員がいることにも驚いた。

ただ、一人の方が集中できるタイプの人間もいるので、単に教育者の主観で「学び合い」は楽しいからと、協力することや楽しさを強制してはいけないよな、とも感じた。全体での目標ではなく、個人の目標にする(課題をどこまで進めるか、終わったら先の内容に進む?他の子を助ける?)とか、「学び合い」にするか「一人で集中したい」か、周りの環境は無言なほど静かな方が良いか、他の子どもの声が多少聞こえても良いか等、さらに細かいレベルで「子どもに決めさせる」という視点は、まだまだ浸透してないのかもしれない。

他方、他の班では「社会性を身につける」や「苦手な人とも折り合い付ける練習」など、義務感が漂う、良くも悪くも今まで通りの意見が目立った。

そこで私が「とはいえ、例えば、いじめや仲間はずれに遭っている子どもが、無理してでも学校に行ったとして、その社会性とやらは身につくのでしょうか?(学び合いの場を学校の中に限定するという前提なら)そうした子ども達も見捨ててはいけませんよね」と、そっと釘を刺してみた。少しだけその場の空気が神妙になった。忖度せず発言しておいて正解だった。(実際そうだと思う。社会性を身につける場を公共の博物館や絵や茶道などの習い事やホームスクールなどにも広げるならともかく)

また、「watchaやけテぶれ」以前から社会の中で「学び合い」を行う人々はいたが、では彼らはどこで学んでいたかという視点から、班のメンバーの意見を問われた。ある人は放課後のテニスクラブだと答え、別の人はインターンシップや就活だと答えた。私にとっての答えは、「(自力で申し込み)自主的に参加するイベント」だ。

これに共通していうるのは、全て「学校の外」であるということ。では、今はどうであろうか。既存の学校はここで言う「学び合い」に相応しい場になっただろうか。

学校に限定するのではなく、「社会」にまで広げるのなら、今も昔もあんまり変わらないんじゃないか。むしろ、物理的な空間という意味でも、「子どもだけが行く」という点でも、拘束時間の有無など様々な意味で、学校に限定するのは限界があるのだと思う。

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