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子どもの権利としての教育の選択権

10月15日(火)、大学の講義で 「小学校入学段階での学校選択・教育内容選択の権利」について学んだ。
教員はほとんど介入せず、また正解はなく、各時間毎に決められたテーマについて、3~4人グループに分かれた各学生が意見や解決策を言うやり方の講義だ。

最初に公立・私立小学校について調べ、授業料やカリキュラム、設立の目的(!)(公立:子どもの教育を受ける(とりあえずの)機会確保、私立:各校の理念に基づいて子どもを育てる)、所管(公立:教育委員会、私立:各都道府県知事)等の相違点を挙げていった。

次に、オルタナティブスクール、フリースクール、ホームスクールについて、それぞれの方法や利点・欠点等を調べ、発表し、最後にほんの少し先生が補足した。

オルタナティブスクールについては、教育に関心のある方や不登校の当事者は一度は耳にしたことがあるであろう。既存の学校(一条校)とは異なる方針の下で運営される学校の総称である。
ただし一条校として認可されているわけではないので、費用は自己負担になってしまう上、出席扱いになるかどうかは在籍している校長の判断に任されている。
フリースクールについても、不登校の子どもたちの居場所という意味合いが強い以外は、既存の学校やカリキュラムにとらわれない様々な方針がある点、認可外である点、費用が自己負担になる点は共通している。

驚いたのはホームスクールの法律上の扱い。
ホームスクールは、主に自宅(それ以外も含む)で学ぶ方法のことである。
子どもにとっては教育を受ける権利がある(だからどこでどんなやり方で学ぼうがOK。勿論ホームスクールもOK)。しかし親にとっては就学義務があるゆえに「今の法律では」違反扱いになる(解釈が多い)とのこと。

これはどういうことかというと、公立校・私立校(いわゆる一条校)に籍を置かないまま7日間放置した場合、親が子どもを出席させないことに正当な事由が無いと見なされ、教育委員会から出席を催促される(無視すれば10万円以下の罰金)ということだ。

「就学義務を果たす」と公的に見なされる基準は「公立校・私立校(=一条校)に籍を置くこと」。
或いは、「子どもが学校に行きたがっている場合に、保護者が就学させること」の2点。
(つまり子どもが学校で学ぶことを希望しない場合に、籍だけ置いて後は9年間一切登校しない、表向き不登校で実態はホームスクールという形なら義務違反にならずに堂々とできるそうだ。不登校自体は教育機会確保法により問題行動ではないと定義されたのだから。勿論、親が出席させないことへの「正当な事由」にも含まれる。堂々と休んで心身回復してから別の方法で学べば良い)法の解釈って難しい。

改めて憲法と照らし合わせてみる。
「…すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育はこれを無償とする」(日本国憲法第26条)http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/a002.htm

「普通教育」の中身については、学校教育と限定する内容は書かれていない。子どもに教育を受けさせるために必要な手段と環境を整える大人に対する「義務」なのだ。
そして「公立校を選んだ場合は、授業料が無料になる(だから給食費や修学旅行代、習字道具代、制服代等は各家庭が支払う。教科書代だけは別の法律で税金で賄われているが…。実質無料じゃない)」としか書かれていない。

さて、この「普通教育」が学校教育と限定していないのに、わざわざ就学義務を作り学校に限定する点…、んん!?何か憲法と矛盾してないか!?
(よしじゃあ憲法に合わせるように法律を変えよう!紛らわしい論争を減らせるように…という願望はさておき…)

この就学義務、あくまでも子どもの教育を受ける権利を(最低限)保障するためのものである。法律は法律でれっきとした理由があったのだ。

しかしその場合、登校刺激する先生、学校の相手をする保護者、そして子どもの3者全員の負担が大きいな…。少し前にTwitterで話題になった「ネットで出席・欠席の連絡を入力できるシステム」、あれが普及すると負担が減るのかな。ネットもあるのだし、いつまでも「伝統」の名の下に負担を減らさないでいるのは勿体ないと思う。

終盤では、学校の中で本当は「これには参加したくなかった」「自分で決めたかった」と感じたことを発表した。

・合唱コンクール(人前で歌うのが恥ずかしい人もいる)
・プール(当時中学生で人前で水着になるのが嫌だった)
・マラソン大会(走るのが遅く、クラス対抗の中、皆の足を引っ張るのが申し訳なかった)
・部活動の入部の強制(放課後は自由に過ごしたかった)、等が挙がった。

約2~7年前に中高生、8~13年前に小学生だった大学生でさえ、「強制されて嫌だった」「自分で参加・不参加、内容等を決めたかった」と感じる学校行事や授業内容が多々あったわけだ。

それを「子どもは判断力が未熟で、気分によっても発言が変わることがある。昨日嫌がってても今日は平気なこともある」のように一律に決めつけて選択権を奪って良いのだろうか?また、「嫌なことでも乗り越えて…」のような根性論でねじ伏せて良いのだろうか?

学校教育は学びの“手段の一つ”でしかない。家で料理作ったり、動画観たり、図書館に通ったり科学館見学、高卒認定など、実は沢山ある。そして、“いつ” “何を” “どのように”学ぶか、全部決めたい子どもが存在する。でも学校はそれとは真逆で、登校時刻も科目も全部決められてしまっている。その場合、子どもの考えとは合わないが、本人に合う教育を選択するのも…たとえ結果として学校は選ばなかったとしても、それは子どもの権利。何を選ぶにしても、実際にその教育を受けるのは子ども自身なんだから。

もしも、小学校入学する前に、遅くとも小学1・2年生の段階で学校以外の選択肢を知ったら。或いは、どんな教育を受けるか子ども自身が選べたら。不登校の子ども達は減り、そもそも不登校の概念自体なくなっていくのではないだろうか(政府は簡単には認めないかもしれないが…)。勿論、学校がぴったりな子どもにはそれでいいとして。

なお、授業終了後に少し、この講義を担当している教育学専門のF先生と話した。

私が受けてきた小中学校の授業が簡単すぎるという体験談。学校教育が全員には向かないこと、教員不足の点、神戸での教員によるいじめという名の暴行事件、教育予算が少ない割には科目だけ増やしすぎ…という話まで幅広く話した。

similarl「国からの教育予算が足りないのも、先生が足りないのもカリキュラムが6割くらいの子どもにしか合わないことは承知の上ですが、だからと言って、その少数派の子たちを蔑ろにしてはいけないと思います。でも今のままでは対応しきれないし、子どもの成長は待ってくれない。学校が変わる間に大人になってしまう。「学校以外の選択肢を選ぶ」ことは、“本人にとって、今、より適した環境と方法で学ぶ”ことを叶える「手段」なんですよね」
F先生「(相槌)」
similarl「何かもう全部絡んできて、どこから解決していくのか…」
F先生「とりあえず予算を増やすところからだね」
(二人で笑い合う)
similarl「(予算の少なさの割に道徳やプログラミングなどの科目数や授業時間数が増えてる点について)学習指導要領が…少々、縛りすぎかと…。あと受験ありきの学び方も」
F先生「生徒が“これ暗記するんですか?”とか、何のために学んでるのか、って思うよね。せめて大学では“当たり前”のことに対して疑問を持つ思考力を身につけてほしい」
similarl「そうですねぇ。学校の色んな理不尽に、高校までの在学中には気づかない人は多いですよ。一方、気づいた少数派が不登校を選んでいく」
F先生 「学校に行くのが“当たり前”として教えられてきましたからね。子ども世代くらいには…何か変わっているかな」
その中間に位置する私(たちの世代)には、何かできるかな…?

F先生、ありがとうございました!!

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