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【夢小説 010】 夢肆位「飛行機と半券(2)」

浅見 杳太郎ようたろう

 でも、ぼくはもう六年生だ。あのころのぼくじゃあない。

 ぼくは妹の手を引き、階段をカンカンと昇って行った。伯爵はいい人、じゃなくて、いいヤギに決まってるさ。ちゃんと頼めば、きっと乗せてくれるとも。そうとも、自分の気持ちを伝えるんだ、伝えるんだ、と呪文のように口の中で繰り返しながら、ぼくは一段一段つまずかないように昇って行った。

 しかし、昇るにつれて、何だかタマまで一緒に腹の方へせり上がって来るようで、妹の手を握っていない方の手が、あそこ・・・へと伸びて行くのをどうすることもできなかった。トッケンブルグ伯爵の前に立つと、我慢できずにさかんに揉んでいた。

 もみもみもみもみ、もう止めようがなかった。

 近くに立ってちらりと見上げると、伯爵の細かい表情もよく見えた。

 瞳は毛筆でもって一の字を書いたみたいに横長で、両の眼の間が離れていることもあって、少し間の抜けたような、しかしどこか底知れない気味の悪さを感じさせる顔をしていた。頭に生えた二本の角は後ろに反っていて、ねじ曲がっていた。

 妹はぶるぶる震えていた。ぼくもさかんにもみもみ揉んでいた。怖かった。

 それでもぼくは小六なんだ、お兄ちゃんなんだ。ぼくたちも中に入れて下さいって頼むんだ。ちゃんと礼儀正しくお願いすれば、きっと聞き入れてくれるさ。相手は大人なんだから、たぶん。それに、仲間はずれはいけないんだぞ。ぼくは、意を決して伯爵に声をかけた。

「あ、あの……」

 伯爵は目をさらに細めて、ぼくの顔をのぞき込んできた。その細い黒眼はどろりと濁っていて、風呂場の水垢みたいだった。耳がピクピクと動いた。そして、妹の方にも屈みこみ、その縦長な顔をぐっと近づけてくる。妹はぼくの後ろへ隠れてしまった。

 伯爵は少しの間、口を半開きにしながら、ぼうっと妹の顔を見つめていたが、やがて飽きたように姿勢を戻して、首を後ろにいなした。

 すると、階下にいたネズミたちは、いっせいに階段を駆け上がり、ぼくらを乱暴に脇に押し退けて飛行機の中へとちゅるりんと消えて行った。

 それから、用は済んだとばかりに、伯爵も飛行機の中に戻って行ってしまった。途中、機内の暗がりの中で、一度こっちを振り返ったが、明るいところでは横長だった目がまん丸くなっていて、いっそう底知れない感じがした。最後にメェ~と鳴いて、自分でもびっくりした顔をしながら機内の奥の方へと姿を消して行った。

 ぼくと妹はぽつねんと取り残された。妹はひっくひっくとしゃくり始めた。ぼくは両手で揉みたかったけれど、かわいそうだから妹の手は離さず、片手だけで我慢した。

「ねえ、帰ろうよ」

 ぼくは妹に言った。あのいじわるな伯爵が招き入れてくれることは、もうありえないと思ったからだ。妹もそう思ったらしく、こっくりと素直にうなずいたので、しかたないよね、やるだけのことはやったもんね、と自分を慰めながら、妹の小さな手を引いて階段を下り始めた。

 その時、後ろからぺったんぺったんとスリッパの足音のような、よく響く乾いた音が聞こえてきた。

 まさか伯爵が、と思ってふり向いてみたら、今度はずんぐりとした羊が立っていた。これもちゃんと二本足で立っていた。

「やあ、こんにちは」

 と、羊は言った。

「こんにちは」

 と、ぼくも言った。ぼくより少し高いくらいの背丈だった。大の大人よりもずっと小さい。

「どうしたの? 入りたいの?」

 ぼくはこたえずに、そっとこの羊を観察してみた。

 足元はきたないスニーカーを履いている。ゴム底はずいぶんすり減っていて、かかとなんて踏み潰されていた。ほとんどスリッパみたいだ。だから、よく通る足音がしたのだろう。そのくたびれたスニーカーのすぐ上、すねのあたりからはボリュームのある白い毛で覆われていて、それが全身に及んでいる。

 二本足で歩いている影響もあるのだろうか、顔は何だか人間っぽかった。ふつうの羊みたいに鼻も突き出てはいないし、目もあまり離れていない。瞳はそのままつぶらで、口も羊らしくおちょぼ口だけれど、それでも、羊じゃあなくって人のよさそうな人間のおじさんみたいに見えた。

 人間の言葉を話すアニメの動物キャラクターが現実の世界に出て来たら、こんな感じなのかな、とも思った。言葉をしゃべるには、こういった骨格がちょうどいいのかもしれない。

 でも、伯爵はヤギそのものの顔だった。そうか、だから時々メェ~って言っちゃうんだな。そして、勝手にひとりで驚いて、目をどろりと濁らすのだ。

 ぼくには、伯爵よりもこの羊の方がよっぽど親しみやすかった。ちょうど人が着ぐるみをかぶっているような格好に見えるからだろうか。いや、それだけじゃない。目が優しそうだし、口元には愛嬌があったのだ。それに、言葉づかいも穏やかだった。背も低いから、見下される気づかいもない。

「入りたいの?」

 もう一度、羊はぼくらに尋ねてきた。思ったとおり親切な羊なんだ。だから、ぼくは思い切ってうなずいてみた。うん、入りたいよ。

「じゃ、これあげる。ただし特別だからね」

 そう言って、羊はチケットを手渡してくれた。羊の手はずんぐりしているとはいえ、ちゃんと人間の手の形をしていた。ひずめじゃあなかった。

 白くて厚い軍手をしているみたいな、その立派な手で器用に渡してくれたこのチケットには、「哀願アイガン」と書かれてあった。ぼくは習っていない漢字だから読めなかったけれど、羊が読み方と意味を教えてくれた。特別に入れる貴重なチケットなんだそうだ。これには伯爵のヤギ印の紋章は押されていなかった。

 羊はぼくと妹に渡したチケットをミシン目の所で半分にちぎり、片方をぼくと妹にそれぞれ返した。

「この半券なくさないでね。すごく特別で大切なんだ。わかるかい、大切なんだよ」

 羊はゆっくりじっくり考えながら、言葉を選ぶようにして話した。ぼくと妹は半券をていねいにポケットに入れて、こっくりとうなずいた。羊はそれを真似してうなずき返し、ぼくの手を引いて飛行機の中に招き入れてくれた。

 この飛行機は変だった。なぜって、外から見るよりも、中の方がうんと大きいからだ。

 こんな乗り物は今まで見たことがなかった。飛行機の横腹から入ったのに、大きい廊下がまっすぐにずっと遠くまで続いている。左右の壁は真っ白で、窓ひとつついていない。

 その長い廊下を渡りきると、半透明のガラス張りの自動ドアがあった。その自動ドアは廊下の空間に比べると、妙に低く小さかった。ぼくらのような子どもでも少し屈まないと入れないくらい背が低いドアなのだ。羊はそのドアの手前で足を止め、ぼくたちの方にふり返って聞いた。

「きみたちいくつだい?」

 ぼくは十二歳だと応えた。

「女の子のきみはいくつだい?」

 妹はぼくの手を握ったまま、ぼくの後ろに隠れてしまった。

 羊は不思議そうに首をもっさりとかしげ、その邪気のない眼でぼくと妹の握っている手を見つめた。そうしてしばらく妹を眺めていたけれど、ぼくの陰に隠れて出て来ないので、あきらめて前に向き直り、そのずんぐりした体を窮屈そうに折りたたんで、背の低いドアをくぐって行った。ぼくたちも後を追った。

 その部屋は、ドアと同じく、ずいぶん天井が低い部屋だった。ぼくでも頭が天井にくっついてしまいそうだ。それでも奥行きだけは奇妙なほどの広がりをもっていた。天井が低い分だけ、よけいに奥行きを感じるのだろうか。真っ白の照明も、空間の境目をあいまいにする。

つづく。

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