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うつくしい うめぼし

夫が職場から梅干しを持ち帰ってきた。

職場の人の手作りだと言う。
それは大変美しい梅干しで、私はその美しさに見とれてしまった。
昔から私はきれいな手仕事がされている梅干しが大好きで、地方の直売所で地元の農家の方が漬けた梅干しの中に、自分好みの美しい梅干しがないか探すことが好きだ。

いただいた梅干しは粒が揃っていて崩れもなく、何より色が美しい。梅干し特有の濃い紅深い色と言うのだろうか。見るからに美味しそうでいただくこちらも大切にしたいと思ってしまう力がある。

いただいた梅干しは味も確かで昔ながらのシンプルな塩漬けの味だった。幸せな気分になる。正直お金を払って一瓶買い取りたい。

私がなぜ美しい梅干しが好きかと言うと、そこに作り手の手間が見えるからだ。梅干しは昔はどの家庭でもつけられていたが、実際に自分でやってみると難しい。また手間もかかる。手間も時間もかかるからこそその人の能力が現れる。

こんなに美しい梅干しを作る人はきっと繊細で細やかな人に違いない、と勝手に妄想するのだが、夫にその職場の人の仕事ぶりを聞いてみると、正直そんなに丁寧な動きはしていないようだ(あくまでも夫主観であるので、実際は異なるかもしれない)。

その話を聞いたとき、私は以前働いていた職場の人を思い出す。
その方が手作りのスパゲティーサラダを差し入れしてくれた時、私は感動した。
スライサーではなく手作業で細かく刻まれたにんじん・きゅうり。絶妙バランスのマヨネーズで和えられており、見た目も大変美しくとても美味しかった。「私もこんなスパゲティーサラダが作ってみたい」 と思わせるだけの力がそこにはあった。

一方で、その作った方の仕事ぶりは確かに丁寧で美しく、 私もこんな風に扱われたら嬉しいだろう思うクオリティーだった。 ただその方はこだわりが強く、自我が強いため周囲との価値観が合わず比較的人間関係のトラブルを起こしやすい性格ではあった。

ものづくりとその人のキャラクターは比例しそうで比例しない。
自己評価と作品は比例するかもしれないが、(人格における)他者評価とその作品のクオリティーが比例するかというと、そうでは無いのかもしれない。

美しい梅干しを1粒ずつ大切に食べながら、私はその矛盾にいつも不思議さと面白さを感じる。


今年は私も梅干しをつけてみようと思う。
私が仕上げる梅干しは一体どんな形になるのだろうか。



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