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『共生型地域的フリーランス』の研究

 私の住む街はTOYOTAの城下町である。市内の進学校の級友だった子供たちはやがて、TOYOTAグループなどに入っていった。公務員になった人も、教師になった人も、防衛大学に進んで自衛隊の幹部になった人もいる。

 私は、田舎で翻訳をしている。副業で福祉ライターをしたり、離島とのオンライン家庭教師をしている。NPO法人で精神疾病者の支援員もしている。ボランティアで戦争体験の聞き書きをしている。小説やエッセイや短歌や詩を応募してときどき入選したりして喜ぶ。

 私の仕事机の左手には、自分の仕事のイメージ図が書いてある。中心に「法務翻訳」と書いてあって、その周りに「環境問題」「戦争」「格差」が広がっていて、それぞれを解決する場所や方法が書かれている。生活の場は「地域」で、そこでの精神的世界も大切にしている。例えば、我が地域の伝承の本を読んだり、マジックリアリズムと呼ばれる郷土のなかの魔術の文学を読んだり、書いたりする。英語の原文でネイチャーライティングも読む。

 環境問題は家族で田舎暮らしをすることが実践である。「母」というフェミニズムの問題もある。家事をする。私の家は川風を朝、晩入れれば、夏もクーラーはなしでいい。冬には薪ストーブで暖をとる。家の前の川で蛍の光のなかで思索したり、川に潜れば鮎が泳いでいる。桜も梅も毎年目を安らいでくれる。観光地の紅葉の名所があるが、私は山に生えているもののほうが好きだ。星はいつも天で輝いている。

 戦争の欄ではシベリア抑留者の聞き書きを中心に行なっている。我が地域唯一のスーパーマーケットのおじいさんがシベリア抑留から帰郷して、その店を築くまでを描いた。共産主義から資本主義の繁栄へ、時代の流れだったのだろう。日本弁護士連合会や国際法律家協会で勉強会に出ることは、高いレベルの法的議論を拝聴することができ、爪先立ちながら面白い世界を垣間見ることができている。現在は新型コロナでできていないが、近隣に蔵に住むアフリカ人がいて田んぼの手伝いをしに行こうと思っている。ーローカルのなかの外国人ーは私の問題意識の中心でもある。グローバリゼーションと反グローバリゼーション、ローカリゼーションに強い関心を持つ。

 格差の部分では、NPO法人で精神疾病者の支援をしている。多くの福祉施設は都会に集中しているが、その就労継続支援B型は、田舎にあり、地域から仕事を請け負っている。福祉施設が都会に集中しているのは、Googleマップで観ると一目瞭然である。そこは農業と福祉の連携、農福連携もしていて、私はそのサポートもしている。奄美大島や屋久島のオンラインレッスンをしたが、将来的には不登校のオンライン家庭教師をしたいと思う。親のセルフサポートの会にも勉強しに行っている。

 私は職業を「法務翻訳者」と思っている。それ以外は、稼ぐためではなく、人生や生活として行なっている。昔はグローバル経済に関わっていることに妙な罪悪感を感じていた。だが、貿易にはさまざまな条約や法律ですでに規制がかかっていることも知った。素朴な形での貿易は『比較優位』という理論によって、両国に益する。契約書は紛争を事前に防ぐ「予防法務」という役割があり、不確実性が高まった世界において大切になっていると思う。翻訳はただ文字の置き換えではなく、解釈し、知識を経て表現する、そして原文と等価でありながら、日米の法律や言語の違いを踏まえた訳にすることが大切である。

 グローバリゼーションは柳田國男が遠野物語で記したような日本人と自然と化物が一体になったような世界を壊していると思う。現代は、科学信奉や合理主義の行き過ぎの反省に立っている。例えば、私の住む町のユニークな書店の姉妹店主たちがまとめた、この街の昔話(伝承)のような世界をどこかで感じていること、保守、リベラルに関係のない、古代の共同体を回顧すること。その共同体は弱いものも一緒に住む世界である。保守かリベラルかを問わず、世界的に人類の無意識は、それに向かっていると感じている。

 これは私という一例をとった事例であるが、「フリーランス」や「新しい働き方」が、「副業」や「社会活動」を通してなどをし「共生」や「持続可能性」などで地域で寄与する形態を、資本主義の新形態であると考えている。それは「田舎でフリーランス」、すなわち「地域的フリーランス」という資本主義の最終形態と、「コモン」の結びつきなのである。自由な形での労働や個人、そして、複数の共同体に自立しながら関わる「コモン」。「自立」しながら「共生」する「自立共生」とも親和性が高い。「共生型地域的フリーランス」は「資本主義の最終形態」と「コモン」を結びつけた、「新しい働き方」である。

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