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『三仏教を同時礼拝する』 田舎に根付く寛容な仏教

 私は、無類の散歩好きでして、訳したり、雑文を書いたり、教えたり、社会活動をしたりしながら、よく外をうろうろしております。猫もいますし、今時はやりの「森林散歩」を素でいきます。毎日のランニングと同じコースを散歩するのですが、その一周2キロ程度の山道に、三つの神社、お寺があります。

 家から時計回りに廻ると、天台教のお不動さんと呼ばれる滝と小さなほこら、それから少しいって小学校の裏山に稲荷神社があります。そしてもう少し歩くと、今度は古く質素な浄土真宗の寺があります。

 ある時、ふと手を合わせたくなりました。コロナ禍で仕事が途切れてしまい、出費がある時期でしたから、苦しかったのです。私に信仰心があるかと問われれば、なかなか説明しづらいです。つまり、神も仏も信じていません。でも、「存在する」と思って拝む、そうすると、気持ちが自然とそっちに向かい、成就する。ならば、神も仏もいるのではないか。もっと簡素に答えれば「手を合わせると、すっきるするんだ」ということになります。

 伝統的な仏教のルールにはこんな教えはないと思いますが、私はめちゃくちゃな参拝の仕方をします。時計回り、つまり、不動滝、稲荷神社、浄土寺の順番にゆくと、「まったりしていく」コース、逆周りは「気合を入れていく」コースになります。なぜ、こんなことになるのか。

 不動滝の天台教は自然信仰です。自然のなかで厳しい修行を積み悟りをひらく。稲荷神社は「現世御利益」、もっと単純にいえば、「商売繁盛」について参拝するのです。そして、私も面白いなあ、と思うのですが、浄土真宗は、宗徒に酒、女、肉を許した親鸞という人がひらいた教えです。天台教のように、毎日、何キロも歩いて、ふらふらになって、極限状態になって、悟りをひらくのなんてやめよう、そういう「破壊僧」なのです。私はこの教えが大好きです。千日回峰行なんてストイックな仏教の典型です。

 大切なのは、この半径1キロ程度に3つも、仏教所があることです。そして令和の今でも、変わった読書青年が、手を合わせている。ちゃんと、ときどきおじいさんやおばあさんが掃除したりお供えをしていて、細々とですが守られています。仏教は一神教ではないので、同時にお参りしても、仏教的には叱られたりしません。私は、檀家でもないし、深い修行もしていないですが、散歩の時に手を合わせています。内容はなんてことはない、人間関係のことであったり、仕事のことであったり、恋のことであったりします。

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