見出し画像

環境保護と暴力、時に身近な人へと

 私がコンポストをNPOで始めようとした時、また家でも始めようとしたその時、反対や無関心にあった。NPOでは結局、実行することができ、研修まで受けることもでき、資金援助や協力もあったわけだが、初めの頃は「どちらでも良い」「獣に荒らされる」といわれ、あまり色良い返事をもらえなかった。私は「獣に荒らされる」といわれて実施できないとかなわないので、すがさずに論証をあげて反論した。家では、置く場所がないということで実施できなかった。電気のつけっぱなしを消すようにいうと家族からは「地球温暖化で、そういうことをするのはやめて」と言われた。地域の活動家が「グレタさんとの心の約束がある」と言った時は、とんだ発想だと思ったようだった。

 電気のつけっぱなしや水道の流しっぱなしを止めるのは、ごく微小だが、エコな行動の典型である。市のエコスタンプなるものの行動例である。高齢者にとっては、地球温暖化は自分の死後の話だから関心が持てないのだろう。都会ぐらしをやめて田舎に移住することや働き方には関心がある人も、地球温暖化はどこかずっと先の未来のことのような、とほうもない遠大な政治的なことのように捉えられている。ここで述べるまでもなく、今世紀末には地球は今の子供たちとその子孫は生存できない環境になる可能性が極めて高い。グレタ・トゥーンベリさんが怒っているのはそのためだ。グレタさんも父や母にエコな行動を求めたという。

 ならば、怒りの極度、行動と行動を促すことはエコ・テロなわけだが、これは彼らのいう市民的不服従の曲解であり、ソローが非暴力不服従を市民的不服従と名づけたのだが、エコ・テロは暴力である。

 私の言いたいことははっきりしていて、大人たちに無関心や無関心がうらにある理由をつけて否定することについては、私たちの世代ははっきりと言ってやれば良い。死ぬのは私たちだ、と。しかし、物理的なテロに出ることは、いつのまにか、なにかの暴力に対するアンチテーゼの暴力が、その暴力と同じ論理を帯びてしまうあの罠にかかってしまうだろう。

いつのまにか、自分が環境=社会を破壊する者になっているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?