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地球共有論 土筆は誰のものか

 地域のいつもの思索の道を散歩していると、ツーリングをしている人が土筆をとっていた。私は、近くの曲がり角を曲がったところの斜面にたくさん生えていることを教えた。

 私は地域の共有財産を、地域の誰かが食べるかもしれないのに、あげてしまったことを後悔した。もしかしたら、子連れのお母さんが取りに来ていたかもしれない。その人は、負い目を感じながら土筆をとっていただろう、それを許すのはまだしも、すすめることなどなかったのだ、と。

 私は次の日、またトレイルをしながら、そのことを考えてみた。まず、論点を絞る。その土筆は、地域の共有財産か、それとも地域以外の人も含んだものなのか、と。入会権という民法上の権利もある。

 調べてみると土筆は1日に1センチくらいは伸びる。あの人が土筆をとったところでまた生えてくるだろう。そうやって、地球は再生産してきた、取り尽くさない限り。そして、散歩をしていたら、いろいろなところに土筆が生えていた。都会の人に分けても、土筆はあまるほどある。そして、また生えてくる、分け合えばいいのだ。あのおじさんも、土筆を肴に一杯やれただろう。

 そして、昨日の私が教えた丘に行くと、土筆は残っていた。おそらく、全ては取らなかったのだろう。ここにある思想が浮かび上がる。それは自然にはなにも人為的な境などないのだ、ということだ。空間においても、時間においても。

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