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芸術家志望は「表現」としての商品制作で生計を立てるといい。

 私の職業は法務翻訳者です。正確には法務翻訳者志望の資格勉強中の身です。大学では文芸サークルに属し、小説を主に書いていました。いつも図書館の小椅子に座り、朝、新聞を3社読み、吉本隆明や大江健三郎などの難解で同世代が誰も知らない(名前すら知らない)本を読み、本を持ち歩いていました。小説家になったるわ! と休学をしたのですが、ある日、コップに入った冷水がいきなり茹で卵になるように、「そうだ、この田舎の実家で翻訳をしよう」と思いついたのです。

 正直、小説家になれる自信がなかったのです。今は、詩や短歌や随筆や戦争聞き書きを書いているのですが、小説は「死なないと」いけないのです。自分はどうしても「生きて」しまうので、小説、とくに純文学は不向きなのです。自分語り、ナラティブはできるのですが、「ストーリー」は書けなかったのです。瞬間的なひらめきは多いのですが、時間の持続とともに、一つのタネに葉を生やせ、茎を伸ばすことができなかったのです。

 翻訳をし始めたときは、創作が主で、契約書の翻訳が「アルバイト」だと思っていました。芸術家こそ、真に自由な存在であり、絶対に大企業に勤めたり公務員になったりしないぞ、と思っていました。そして、契約書翻訳は、小説家とその間にある妥協案だったのです。世の中には、ビールというものがあります。私は必ず、スーパードライを飲むのですが、ビールを「アサヒ」でつくっている人は、一種の芸術家なのではないか、と真剣に考えているしだいです。例えば、「捻子(ねじ)」があるとします、それを開発する人は、それも芸術家なのではないか、と思います。

 真の芸術家は、一種の大衆化に意識的です。私が好きな村上春樹も、夏目漱石も、どこか「分かりやすさ」を技術的に修練されています。村上春樹さんは、SFやミステリーをかなり読まれていますね。そして「媚び」ではなく「大衆に分かるように書くこと」は芸術をよくするためにとても大切な要素です。そうです、ビールは芸術なのです。とても分かりやすい芸術です。

 真剣な話、芸術家志望の人はどこかの段階で、生きることを選ばないといけません。この資本主義社会のなかで、現実的に生計をたてなくてはなりません。それが芸術かはともかく、自分を鍛錬し、経済的にする決断をしないといけません。芸術の経験の生きる、経済的な仕事で生計をたてること、それはもっともベターな選択なのかもしれません。そして「工業デザイン」で大きな成果を残した人は多くは、若い頃、芸術に深く触れ、自分でも作った人です。いや、芸術に触発されたことのある人のみが、「工業デザイン」で本物になられるのです。とはいうものの、ときどき、私は詩や短歌や随筆や戦争聞き書きを書きます。そしてそれは少しだけ辛くて、めんどくさく、苦しくて、そして魂があります。

 多くの若者は、若い頃に書いたり、撮ったり、踊ったり、演じたりしますが、だんだんと忘れていきます。自らそれを捨てます。でも、それをぐっと我慢してとっておくこと、絶対に忘れない「イジ」を持てる人は、完全な「思考停止」になることがありません。それはその人を美しくします。穏やかにさせます。

 そして、もし、本当に芸術をつくりたいのなら(短歌を作る人は、教師やサラリーマンになることも多いのですが)主の収入自体を創作鍛錬に向いたもの、そして「生活」が持てるもので得ると良いでしょう。そうじゃないと書くものは全て「アルバイトの話」「堕落した生活の愚痴」になってしまいます。

 私は偉そうにそんなことを説いていますが、一方で、大変な面もあります。契約書の翻訳をして、短歌が契約書のようになったり、さまざまな苦労をしています(本当は芸術家は芸術だけやっているべきなのでしょう)。しかし、一方でこんなこともいえます、専業作家が精神状態や生活が破綻しないようにすることはとても難しいものです。それは作ったことのある人しかわかりません。つねにポエジーを持っているとどこかで壁に頭を打ちます。頭を打った人に詩は唄えません。「生きる」ことを書くには、半芸術で生計をたてるという手もあるのです。「芸術か生きることか」を存在をかけて考え抜き、「生きる」ことを選んだからこそ、「芸術が生き延びる」選択もあるのです。「生きる」とは「芸術か生きるか」で「生きる」ことを選ぶということです。そして「生きる」ことを「書く」ことをすることもできるのです。

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