アマチュアが演奏する意義について考えてみた

先日、いわゆる一流演奏家にはなれない才能なき者(という言い方もアレだが、わかりやすさのためにあえてこのように書く)が練習する意義とは? という話をSNSでチラリと見かけた。
演奏スキルを身につけるためには時間を捧げねばならず、オマケにスキルは必要条件に過ぎず、更にその人が持つ独自のセンスというものが乗っからなければ音楽としてツマラナイこともある。センスが反映されたところで、それを好いてもらって対価に繋がるかもわからない。
自分自身のためになるかどうかということであれば、それはその人次第としか言いようがない。
では、目線を他者に広げてみてはどうだろうか。演奏人口が広がることによって、類い稀なる才能の持ち主が音楽に出会うきっかけを作ることにもなり得るかもしれない、と考えてみたりする。そんな人たちが切磋琢磨しあい、より良い音を、フレーズを、追究していく。ロマンだ。
では人前で弾くべきなのか? ということについては、人の耳に届かなくても「習ってる先生を紹介するよ」とか、道のひとつにはなれたりするんではなかろうか。
ピラミッドが高くなるほど、土台は大きくなければ安定しない。そんな観点を持てば、自分が演奏することの意義も立ち現れてくるかもしれない。知らんけど(無責任)。
それにしても、演奏やら人生やら、いつ終わるとも知れぬものに意義を見出そうとしたりして、ヒトというのは大変な生き物だなと感じる。
ここ最近、自分が生きている状態であるために必要な肉体というものは、親から、祖先から与えられたものだなぁ……と感じることがある。何一つとして、自分が生み出したものではないのだ。
祖先だって、もともとは大自然から肉体を与えられ、その大自然ですら、なぜか存在するこの宇宙というものがあるからこそ存在しているわけで、そんな風に考えると、生きてるだけでものすごい奇跡なんじゃないかと考えるに至った。
お金を稼いでチェロを習いにいくという行為も、たまたま「今」できるようになったというだけで、そこに至るまでに、親をはじめとする世界から色々と与えられてきたわけである。
話がズレたが、チェロと、音楽と出会えたことを「有難いこと」と認識し、いつどこで中途半端に終わるのかも知れぬ奇跡のような人生に感謝しながら、練習をできるというプロセス自体を有難く積み重ねていければと思う。
とは書いてみたものの、寝てる間に劇的に上手くなりたいというチートを望む心もあったりするので、どうあがいたところで私は凡夫に過ぎぬということを再認識した。

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