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音楽みたいな物が書きたい。

 どうもこんにちはこんばんは、そしてお久しぶりです。みざです。今日は投稿が無かった期間中の話だったり最近考えてることをゆるっと書いていきます。

 

 まずは前回の投稿からかなりの期間が空いてしまいました。なるべく間が空きすぎないようにというのはいつも考えていることなのですが、自分が何も書けないと思うのに無理やり書くのもおかしな話だなということで休んでいました。身体的にはびっくりするほど健康です。

 なぜ何も書いていなかったのかについては、何と説明すべきか迷います。自分の頭の中がそもそも何か物を書けるほど整理できていなかったといった感じでしょうか。いろんな事象であったり思考が脳内に散乱していて、手の付け所がありませんでした。

 具体的に言うならば、ここ最近試験だったり課外活動であったりといった体力的な忙しさに加えて、三者面談で進路相談があったりドイツへの研修が迫っていたり、単純に悩み事があったりなど、立ち止まってゆっくり考えなければならない精神的な忙しさがあり頭の中がごちゃごちゃしてました。(今もそうではありますが一段落したこのタイミングで描きたいと思いました。)まさかnoteで自分の思考をアウトプットする余力などあるはずなく、、。

 


 僕が小説だったりまとまった文を書くときというのは自分の中の問いにある程度納得できる答えが見つかったときに、それを形に残したいと思った時が多いので、自身の内に答えが必要になります。実際、小説というのは多くの場合受け手の解釈の幅が音楽や詩などに比べどうしても狭くなりますから、そのメッセージをどれだけ美しく伝えられるかという事になってきます。そのためには自分の中の信念というのは必須事項になりますし、それが明確であればあるほど小説も書きやすくなるのかなと思います。


そう思うと、青年期真っ只中、自我の確立にまだ至っていない僕のような人にとって小説を書くというのはいささか難しいような気がしてきます。この時期の少年少女の哲学のほとんどは吹けば飛んでいくようなものだと思います。僕含め本人たちはその時は本気で人生の答えを掴んだような気になりますけど、翌朝にはどう考えてもおかしいな、となることがほとんどですからね。そんな中で何万字という小説の中に自分の哲学を落とし込み続けるというのは可能なのか?という気すらしてきます。

 だから今の僕は音楽みたいな小説が書けたらなぁ、、。と漠然と考えています。小気味よく進んでいって、終わりには少しの余韻を持たせて、受け手の解釈の自由度を高めるような。そうすれば書き手側が表現できるものも多くなるような気がしますし良いのではないかな、と思います。じゃあ音楽やれよって言われそうですが、僕は大前提小説が好きなので。目的と手段の話です。小説の内容はあくまで手段にしか過ぎません。目的は自分が満足する小説を書くことだけ。こんなことが僕にできるかどうかは置いておいて。

 

 

 これからも色んな事情で投稿が滞ることはあるかと思いますが、辞めるってことはない、と思います。少なくとも今のところは考えていません。フォロワーさんもあと少しで200人!!あくまでもマイペースに頑張っていきますよー!

それではみなさん、良い一日、良い夜を〜。

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