短編小説 虎が棲んだ六畳間

 どこまでも高く昇った陽に手を伸ばすように高層ビルが所狭しと建ち並び、その合間を縫いながら歩く人々はさながら果てしない迷路の中にいるようである。

 そんな景色と陽光をカーテン一枚が隔て、シンクに水滴が落ちる音だけが異様に大きく響く六畳間のアパートで、私は今日も蹲っている。ちょうど、叢の中で眠る虎のように。

 東京二十三区、居酒屋が立ち並ぶ通りの路地裏に、十年間住み続けているアパートが世間から隠れるようにして存在する。大学への進学と同時に住み入り、就職した今もなお私の帰る場所であるその六畳間は、その全てが元号二つ分遅れているといった具合で、今のような梅雨時期になるとカビの臭いのする畳やら傷んだ木柱やらが湿気を含み、なんとも不快であった。そして久方ぶりに陽が差したこの日、私はどうしてか動けなくなり、薄い布団の上に為す術なく横たわっているのである。

 じっと目を瞑って、外界のことを想察してみようとした。

 昨日まで長らく降り続いた雨が街の至る所に水の滴りを残し、陽光を煌めかせて水晶のように輝く。まるで街全体を澄んだ水ですすいだようで、爽快感と瑞々しさを含んだ風が、街の中を過ぎる人々の頬を撫でていく。

 一週間の中日、陰鬱な気持ちを抱えたサラリーマン達はこの晴れ模様に少しだけ背中を押され、懸命に一歩を踏み出していく。

 ここで私はふと目を開けてしまった。先程まで美しく澄んだ東京の朝を見ていたはずの視界が切り替わり、うっすらと埃を被った薄暗い床だけが映った。私は息が詰まるのを感じた。

 時間感覚が失くなっていく。もう正午を周っただろうか。サラリーマンとしての日常が細胞の核まで染み付いてしまってからは、時計の針を直さずともおおよその時間が判断できた。今頃勤める会社では多少の騒ぎになっているだろうか。就職してからの数年間、一度も遅刻、欠勤したことのなかった人間が突然、それも無断ときている。上司の歪んだ顔が思い浮かびそうになって、あるいはもう誰も気にも留めていないだろうかとも考えた。他人のことほど無関心なことはないのだと、痛いほど分かっている。きっと会社の誰もがそんなことを考えるほどの余裕を持ち合わせていない。

 私はおもむろに立ち上がり、小さな冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。手に伝わってくる冷たさが、目を覚ましてから初めて感じた刺激で体が震えてしまう。

 布団の上に体育座りになった。栓を開ける音が驚くほど大きく響く。思わずため息が漏れそうになって、その空気をアルコールと共に体内に押し戻したが、一口を飲み終わるや否やさっきよりも深い溜め息となって吐き出してしまった。体から力が抜けてしまい、再び蹲ってしまう。

 突然、なにか寂しさのようなものがこみ上げた。言い切れないのは、認めたくないからなのかもしれない。視界が溶けるようにぼやける。押し込んだ缶一本分のアルコールが胃の中で疼いている。

 語るほどの過去もなく、夢に追いつけるだけの才も持ち合わせていなかった。ただそれだけである。青年期、それも上京前、自分の非凡を信じて疑わなかったのが嘘のように思えてくる。周りの人間をおしなべて見下し、馬鹿が伝染るとでもいうように交わることを避けた。何処かで悟り、何時かに諦め、心の奥に押し込めたはずのものが、この晴れ間を引き金に顔を出してきたのだ。戻しそうになったのは、白昼にアルコールを飲んだからか。それとも。

 いっそのこと異類の獣になってしまえばいいと思った時、自分の精神がとうに衰弱しきっていることに気がついた。虎にでもなってこのカビ臭い部屋を飛び出し、一度だけでも東京の街の真ん中で暴れ狂うことができたなら。中島敦の山月記が思い出される。鬼才の役人から虎へと身を堕としたことを嘆いた李徴に、初読当時は少なくとも同情の念を抱いただろうが、どういうわけか今では羨望に変わっていた。確かに虎の体で他人を殺めたことを人の精神で受け止めることは辛いだろうが、一度心まで虎になってしまえば後はなんということはないだろう。人の身体のまま、そして心も人のまま、得体のしれない、しかし確かな絶望だけがのたうち回っているこの半殺しのような状態を形容する語彙が浮かばない。

 だから強烈な「眠気」に襲われたのも納得のいくことだった。起きていてもただ凡庸、醜悪、哀れな人間が一人転がっているだけだ。ならば、今更起きている理由はない。

 私は最後の力を振り絞り立ち上がる。塵を被った床を裸足で歩く感覚が不快だった。窓縁に片方の手をつき、もう片方で勢いよくカーテンと窓を開けた。

 今日はじめて受けた光に体がよろけそうになるが、なんとか堪えた。いつの間にか夕刻になっていて、電線で象られた空が橙色に染まっていた。表の居酒屋通りには喧騒が訪れていて、いくつもの笑い声が音漏れのように聞こえてきた。涼しさを乗せた風が窓を越え、私の濡れた頬を過ぎた。その拍子、私はそそくさとカーテンと窓を閉め、「眠気」が覚めるのを拒んだ。

 また部屋には暗闇と静寂が戻ってきていた。私は布団に戻り、眠りについた。ビールの空き缶と私の目元には、ひと粒ずつ水滴が残っていた。

 


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