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自分の話に価値はないのか

先月、こんなnoteを書いた。

要約すると、人と会話をする中で自分の話をするのが苦手で、その理由は対面での会話の速さに脳が追いついていないからではないか、という話。

しかし、この仮説は少し間違っていた。
実際には他にも理由があり、実践を通してそのことに気付いた。

新たな理由は、自分についての話をすることに価値を見出せない


数日前、友人の家に遊びに行った。


少し前の記事に書いた、パスタ作り+映画鑑賞の予定だったやつである。実際にはパスタ作り+散歩とおしゃべりになった。

大学でお互いの授業の合間に会えたら会って話をしてきた友人だったから、時間に追われずに自由に話す時間は初めてだった。

話す時間がたくさんあると、会話は一方的ではいられなくなる。聞くことに徹していたら、途中で「カナのことも教えて?」と笑顔で言われた。どうにか自分について話していく中で、私はその内容のネガティブさに落ち込んだ。

・・・

例えば、今までで1番幸せだなって思った瞬間っていつ?という話で、彼女は楽しい思い出を2つ話してくれた。私が思いついたのは2つ、「今」と「鬱病の通院最後の日に車から泣きながら見た太陽」だった。過去の1番ってなんだろうと考えても、何も思いつくことができなかった。

他にも、親友っている?という話になったときは、私に友人と呼べる人がいるのかすら危ういことに気付いた。私が友人だと数えられるのは2人。彼女は多趣味でそれぞれの趣味に対して友人がたくさんいた。比較しても仕方がないけど、久々に比較対象が目の前にいるからか、少し辛くなってしまった。

……たった今、記事を書きながら「今までは友人が居なすぎて比較対象がいなかったのか」と気付いた。これもまた悲しい気もするが、考えても仕方がないから考えるのはやめておく。

・・・

自分についての話をするたびに、私は対面の会話の速さよりも話の内容について心配していた。

「こんな話、聞いていて楽しいかな」
「ネガティブすぎて自分ですら落ち込むな」
「楽しい話ないかな」
「私の話に時間を割く価値はあるのかな」

対面の会話は話し手が強い。noteであれば読み手の判断で途中で読むことをやめることができるが、対面の会話では聞き手に聞くことをやめる権利はない。話し続ける相手を止めるのはとても難しい。逆に、話し手側からすると聞き手がどんな気持ちで聞いているのかは分からない。


私は自分の話に価値を見出せず、それを聞いている相手に対して申し訳なくなり、更に自分の話をするのが嫌になっているのだと思う。

文字にすると、なんてネガティブ…!!と思うが、これが今の私の現状である。今のところ、対策も改善方法も思いつかない。


よく考えてみると、この話も自分に自信がないことに繋がっている。
自分に自信がないから、自分の話に価値を見出せない。

これは、私にとって永遠の課題なのかもしれない。


皮肉なもので、ひとつ前の記事のタイトルを「あなたの価値は無条件」としていたことに気付いた。全く違う内容を隣り合わせの記事で書いてしまうのも人間らしいと思うことにした。

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