いけばなとエロティシズム
いけばな。植物をいい感じに配置することで人々にいい感じの印象を与える芸術の一派である。
ぼくにはいけばながわからない。生まれたてのスコティッシュフォールド同然である。わからなすぎるので友人の家にあるいけばなの本を読んでみた。どうもメインの草とサブの草があって、それぞれ長さや角度が決まっていたり、また花器の中でそれをどういうバランスでとりあわせていくのか、たとえば花器が円形ならそれに内接する三角形を考えて……というような観点で配置されているらしい。こうなってくるとこれはもうあれだ。幾何学だ。やる気が出てきた。いけばな展にいこう。
いや、最先端の生花はすごかった。ぼくの予習は灰燼に帰してしまった。いけばなというのは空間を占領する力が強すぎる。満員電車のなかにスッ……と花が生けられていたらさぞ迷惑だろうなと思った。よく考えられている。
使われている草花の形もすごい。なんか空間充填曲線みたいなやつがある。遺伝子操作でとんでもないかたちの花を作り出すマッドイケバナイエモトみたいな人がいるんだろうか。現代アート同様、いけばな業界もゆきづまりを打ちやぶろうとしているのかもしれない。
ちょっとしたカウンターにでもつかえそうな堂々たる一枚板である。抽象化された木の幹?
いけばなは植物を扱っていながら、その自由さや生命力に任せるのではなく、人の意志を強く押し出しているところがおもしろい。たとえば盆栽とはそこが大きく異なっているのかなと思う。
と、こんな調子で、何もわからぬままいけばな展を眺めているときにぼくが思い出したのは澁澤龍彥「エロティシズム」の一節だ:
「ところで注意すべきは、花とは植物の性器である、という事実だ」
(澁澤龍彥「エロティシズム」)
つづけて澁澤の言葉を借りれば、「誕生日の贈り物に、馬や猫の性器をプレゼントしようなどと考える人間は、どこにもいないにちがいない」。
べつにぼくは花のうつくしさに水を差そうというのではない。ただ、その性器だけをもって人々に愛されるというのはなんだかおもしろいなと思う。動物ではこのようなことはまずないだろう。性器のうつくしさ・良し悪しを基準にして飼うペットを決めたり付き合う人をきめたりだとか……。
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