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人に何かを説明すること、帝国の地図を描くこと、クリプキがウィトゲンシュタインを語ること

……時のたつうちに、こうした厖大な地図でも不満となってきて、地図作成法の学派がこぞってつくりあげた帝国の地図は、帝国そのものと同じ大きさになり、細部ひとつひとつにいたるまで帝国と一致するにいたった。……
(スアレス・ミランダ『周到な男たちの旅』第四書第十四章)

 「ボルヘス怪奇譚集」に「学問の厳密さ」と題された断章があって、それはある帝国の地図について語っている。帝国の地図学が頂点に達した結果として縮尺1/1の "完璧な" 地図が制作されるが、やがて無用のものと見なされ、放棄されてしまう。つまり、地図は不完全であるか、縮尺1/1となって人々の手に余るか、どちらかの運命を強いられるということだ。

 タイトル通りに学問の話だと思って読むのが筋だが、もう少し幅広く受け取ると、これは「説明」の話ではないかと思う。わからないんです、と人に言われたとき、われわれはどう説明すればよいのか、何を言えばいいのか。
 地図が①不完全さ ②実物との一致 という二択を強いられたように、説明もこれを免れられない。何かを説明しようと思ったとき、いちばん真面目で誠実な態度は、それをそのまま繰り返すことだ。たとえば文章に書いてあることがわからないと言われれば、それをそのまま読んでみせる。書いてあるんだから、読めばわかるはずなのだ。

 しかしこれは理屈のうえでの話で、実際にはそんなことはない。読んでも意味のわからない文章というのはあるし、それが詳しい人に説明されてわかるようになることもある。もちろん、文章が不完全に書かれていて有識者にそこを補ってもらったから分るのだ、という場合もある。だが、不完全さや意味のまぎれがなるべくないように明晰に書かれた文章でも、同じことは起きうると思う。

 明晰に書かれた文章が、説明によって「わかった」とき、それは説明者によって情報が適切に削られたり、変更されたから "わかる" ようになったのだ。地図のたとえを再び持ち出すと、用途に応じて適当な縮尺の地図を準備するのが大事なのは言うまでもない。車で旅をするときに、通りに住む人の名前が一軒一軒書かれた地図は必要ないのである。
 話を文章に戻すと、説明者が「わからせる」とき、そこには大なり小なり省略や変更、翻訳があることになる。それは、適切な範囲に収まっていればべつに問題はないと思う。いい説明は必要だ。しかしやりすぎると「超訳 ニーチェの言葉」みたいになってしまうから、いささかの注意は要る。

 まあやりすぎの説明というのも味ではある。たとえばクリプキは、私的言語の不可能性を「哲学探究」の243節ではなく202節に見出すなど、ウィトゲンシュタインの恣意的な解釈で知られる。されども彼の思想は魅力的で、彼の描くウィトゲンシュタイン像は「クリプケンシュタイン」と呼ばれ、一定の批判と一定の評価とを受けている。彼自身このようなことはある程度自覚していて、

[ウィトゲンシュタインの]議論をここで私が述べたり再構成したりする仕方の多くにたぶん、ウィトゲンシュタイン本人は賛成しないだろう。それゆえ、この本は「ウィトゲンシュタインの」議論を解説するものでもなければ、「クリプキの」議論を解説するものでもない。むしろそれは、クリプキの目に映じた限りでのウィトゲンシュタインの議論、つまり、その議論がクリプキに問題を提示した限りでのウィトゲンシュタインの議論を解説するものである。
(『ウィトゲンシュタインのパラドックス』)

と述べている。

 クリプキがやったことは、生産的な誤訳とでも言えるのだろうか。結局は、うまくやるか、そうでないか、というところに落ち着くのかもしれない。

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