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「だから、もう眠らせてほしい」感想

この話の本当の感想を書こうとしたら、自分の関わった大事な人の個人情報に触れることになるし、その人たちに「書いていい?」と許可をとって回るのも面倒なので、出す個人情報については「私自身」のものに限りながら書いていこうと思う。

この本を買おうと思ったきっかけは、

このヤンデル先生のツイート。これを見てから私はこの本が気になってたまらなくなり、kindleでは出てなかったので暫く悩んだんだけど、珍しく紙の書籍を購入した。

ページをめくる手が止まらなくて、わずか一日で読み切ってこうして感想文を書いている。すごく、濃い物語だった。「命」を扱ってるから、当然かもしれないけど。

私は、大学生の頃「いのち教育」について扱っているゼミに入った。そこで「魂の健康」的なテーマを扱わせていただき、学部生の私には手に余るテーマであったのだけれど、特定の宗教が信じられているわけではない日本においては「人とのつながり」がその魂の健康のコアになるかなって結論を書いた。

ゼミの研修で緩和ケア病棟の見学と取材をさせていただき、「尊厳死」とか「リビングウィル」という概念に触れたのもこの頃だった。私たちの見せていただいた病棟には、仏像のある部屋があって、ほの暗いそのお部屋はお線香の匂いがした。お医者さんだけでは足りない部分があるからと、お寺と連携していてお坊さんが定期的にきて患者さんと話しをしていると聞いた。

病院の先生から、末期ガンなど助かる見込みのない患者さんの苦痛を取り除き、終末期を極力穏やかにすごす「緩和ケア」の話を聞いた。寿命は延びないかもしれないけれど、生きている時間の「質」を重視するという考え方。自分ももし重大な病気になって余命いくばくかとなったら、そういうコンセプトの治療を受けたいなぁ…と、わりと本気で思った。

だけど、緩和ケアを行ってる病院はとても少ないし、近くに存在していてそちらへ転院を希望をしてもらっても全員が入れるわけじゃないという悲しい情報を得て、その取材は終わった。だからこそ教育を担う私たちは、「望まない治療や死に方を避け、尊厳のある死をむかえる」といった概念を、次の世代に伝えることをするべきなのだろう。

ただ、存在感のある仏像もお線香の匂いも…その頃の私にはピンとこなくて、「終末期は絶対この病院で治療をうけたい」とまでは思わなかったし、自分だって「死」についてそんなにピンときてないのに、果たして子供たちに伝えることができるのかな…? と素朴な不安は胸にあった。

結局、私はいま学校の先生をやっていないし、その不安と対峙したり、あるいは教育現場で奮闘したりもしていない。だけど、家族が出来て、可愛い子供がいて、「人とのつながり」に自信のない私にも、確たるつながりもまた出来た。

「死んだら猫になって飼われたい」

というのが、私の今の超個人的な死生観なのだけど、家族が猫派じゃないのでやむなく犬に転生するのもいいかと思っている。

人間でいる間は、いろんな作品を読んで感動したいし、そこで考えたことを出力して楽しみたい。Twitterなぞができるレベルの自我は、生きてる間ずっと残っていて欲しいなぁ。あまり怒りっぽくなったりとか、自分の性格が変わってしまうのは嫌だなぁ。自力で自分のことを全くできなくなったりとか、性格がひん曲がって迷惑をかけるようになったときは、「この人半分死んでるんじゃ?」と判断して、うとうとと穏やかでいられるようなケアがあればそっちに移行して欲しい。多分、私の中の私が、とても苦しいはずなので、その状況は。

って、なんでこんなことを書いてるかというと、「だから、もう眠らせてほしい」を読んで、せめて自分のいのちについて自分で語っていかないと、世の中を変えられないかなぁって思ったからだ。

筆者の方の勤めているのは、私のかつて見た宗教色の強い病院ではなさそうだ。だけど、この本のAmazonのレビューのトップにはおそらくお医者さんと思われる方が「この人だからできただけ」という辛辣な意見が書いてある。

筆者がこのYouTubeの医療系番組で、

「まず患者さんのベットサイドに座るんです」

と、いうことを言ったときに、

「(医者がそれだけの時間を患者さんに注ぎ込める)組織作りからですよね…」

というようなレスポンスを受けていた。

つまり、この本の中に出てくる医療は「当たり前」ではない。普通のお医者さんは、「それぞれの物語」に向き合ってなんてくれないし、それを踏まえた最適な医療を模索してなんてくれない。

この本の物語は、主軸となる二人の患者さんのエピソードと、その二人に向き合うためにされた筆者が何人かの専門家や終末期の当事者(ツイッターでも有名な写真家の幡野さん!)との対話で成り立っている。

安楽死について「反対」とか「賛成」とか言ったことのある人ならみんな、この本を読んでガツンとくる部分がどこかしらあるんじゃないだろうか。どっち派にオススメとかじゃない。安楽死について語りたい人は、全員読んだ方がいいなってレベルで、いろいろな立場の人の当事者意識のある意見が物語という形で提供される。ノンフィクションノベル…すごい。

「安楽死」といえば……

大学でわりと真面目に「生と死」について勉強したにもかかわらず、私は一年前、とあるフィクションの影響をうけて「日本に安楽死はまだ早い」と思っていた。

これ。

この「デスハラ」という作品のもつリアリティに衝撃をうけ、「本当に死にたい時は、自殺するしかないのかもしれん…。安楽死の自由が手に入ったあとの世界が怖い」と心底思った。

だけど「だから、もう眠らせてほしい」の持つ、ノンフィクションのインパクトは、これを上回った。ちゃんと死ぬことと向き合うことは、残された人を想うことだと思う。生きることと死ぬことの両方を語らうことは、人と人の絆を強くすると思う。そう強く思った若い頃の自分と、色々経験して綺麗事を言えなくなった今の自分が再びリンクする日が来た。

日本には「安楽死」というカードがないどころか、「緩和ケア」というカードすら不足している。安楽死は日本に向かない…として、話題にすらせず、そっとしておくと緩和ケアという選択肢すら増えないのではないか?

三人にひとりがガンになる時代。当事者意識のない「安楽死を認めた方が医療費が減る。ベッドが空く」みたいな言葉に導かれて成立する「安楽死制度」は、どう考えたって嫌だ。

だけど、自分がどう生きて、どう死にたいか、ちゃんと周りの人に伝えることで、残される人と世の中をちょっと良くできたらいいなぁと思う。もし世の中で「安楽死の是非」みたいな話が盛り上がったとしたら、黙って沈静化を待つんじゃなくて、この本で得た問題意識とかを心の中心におきながら、自分の言葉で語りたいと思う。

筆者の故郷として、物語の中に、私の生まれ故郷が出てきた。釧路の町。

筆者の原風景は荒々しい海。暗い色の海の描写、寒い冬の温度が伝わってきそうな文章に深く頷いた。目の前に迫る患者さんの死と何度でも何時間でも向き合うようなメンタルは、あの海と向き合う中で筆者の中に育まれたのだろうか。強靭な精神力と知性を感じる。

私が思い出す故郷の景色は、丘の上にあった実家のベランダから見た霧の景色だ。低いところにたまった霧を、時折上から眺めることが出来る。そんな時、神様になったような気分だった。初めて山の上から雲を見下ろしたとき、その既視感に驚いた。

晴れていたら見える大きな湖。禿げあがったかつて石炭を掘っていた山、小さく見える町──その全てが霧に埋まっていて、時にはそのまま我が家も飲み込まれる。

この本を読み終えた今、その霧が晴れたような、そんな気持ちだ。久々に見えた湖が眩しい。

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