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2023年新作映画を振り返る-おまけで自分のことも振り返る

今年は、映画館に吸い込まれるように入っていく日が多かった。特に2023年の上半期は、職場で抱えたストレスの多さで、すべての「繋がり」をシャットダウンしたくなるような精神状態だった。
※恨みのすべては、有料コンテンツに入れて静かに葬り去る予定。

映画館の良いところは、通信機器をオフにして、外界との連絡を断つことがマナーとなっていることだ。自分はこの空間の秩序維持に貢献している。このように思えることがどんなに尊いことか…。常時接続が当たり前の現代社会において、連絡手段を自ら断つことには何らかの後ろめたさが伴う。そんな中、映画館はアジールとして、私の精神衛生状態を支えてくれた。

欲を言えば、もっと新作を観たかった。ただ、下半期に入り環境を変えたことで、映画館に頼るのではなく、娯楽の一環として作品を楽しみにいく余白が生まれたことは、この1年を振り返って良い傾向だと思っている。

映画好きの友人にあやかり、Top10を勝手に選んでみた。すでに動画配信サイトでも観られるものがあるかと思うので、気になった作品はぜひご覧いただきたい。※なお、ネタバレをかなり含む振り返りとなっているため、内容を知らずに観たい人は、適宜飛ばしていただきたい。


10. SHE SAID/シー・セッドその名を暴け

いわゆる#MeToo運動のきっかけとなったハリウッドの映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが、長年にわたり性的暴行事件を行っていたという悪事を明るみにした経緯を描く作品。The New York Times誌の2人の勇敢な女性ジャーナリストを中心とする戦いの記録である。

本作で描かれている内容が実話であることが、作品そのものへの説得力を高めており、権力者に対してNoを突きつけることがいかに多くの困難を伴うかを追体験できる良作。

ハラスメントの被害者、そして被害者の声の代弁者、双方の想いに寄り添う手がかりが本作からは得られるかと思う。

近年、いろんなことがハラスメントの対象となり言論空間が息苦しいと嘆く世の人たちにぜひ見て欲しい。この作品に描かれている事実を受け止めることで、自分たちの見識の狭さを改めて欲しいと切に願う。が、そのような人はそもそもこのような作品を観ないであろう。フィルターバブルの弊害である。

9. TAR/ター

SHE SAIDでのハラスメントの加害者は、ワインスタインという醜悪な男性であったが、もしその加害者が端正な容姿を持つ女性であったらどうであろうか…?ケイト・ブランシェット演ずる、リディア・ターは指揮者としてのほとんどすべての栄誉を得た人物(架空の人物)。そんな彼女は、ある一側面を見れば優越的地位を濫用した悪魔のような人物である。

そんな本作は、多様な読みが可能な良作であり、2023年アカデミー賞作品賞候補でもあった。(私は勝手にエブエブを推したが、作品が鋭く描く社会風刺はこちらの方が強烈であったと思っている。)

どうやら、鑑賞後に私はかなり感動していたようで、Filmarksではかなり冗長気味に本作について語っている。

1. 作者と作品の関係性

前半のジュリアード音楽校での授業風景で、まず主題を提示されたような感覚に陥る。音楽作品は、作品単独で味わうものなのか、それとも作り手の「意図」や「目的」を汲み取り、それも含めた総合として味わうものなのか…。

私たちは極々自然にどちらもやっているように思う。誰が作ったものかはわからないけれども、作品から感じ取った美しさに惹かれることもある。他方で、作り手の想いや背景を知ることで深みを増すこともある。またあるいは、作品が出来上がる過程に「不純物」が紛れ込んでいる可能性があり、それが作品そのものを損なわせてしまっているも感じさせることもある。

前半の授業風景では、まさにそのやりとりがなされる。女性を搾取していたバッハの音楽は、そもそも興味もないし聴きたくないという学生に対し、ターは反論する。作品と作者は別物ではないか。あるいは、人間理解という意味では、黒い部分のある人間が、こんなにも素晴らしい作品を作ることができるという矛盾、アイロニーを感じるということもあるかも知れない。この点は、この後ター自身の行いが明らかになっていくことで、自己弁護的な要素であることに気付かされるわけだが、なかなかに強烈である。

優れた芸術は匿名性を帯びるという言葉もある。それに、昨今の生成AIの登場で、もはや芸術作品でさえ、過去に人間が生み出したものから創造的に模倣して無数に作品を生み出せる現実が立ち上がっている。そのような変化の中で、もう一回作品が作り手のストーリーと共に語られ直すということもあると思う。

2. 加害者の視点から見た被害者性

ケイト・ブランシェットの美しさのせいで見失いがちだが、ターは優越的地位を濫用して思うがままに振る舞うパワハラ・モラハラ系の指揮者である。

SHE SAIDで告発されたワインシュタイン本人にも重なるが、容姿も含めて見るからに極悪人であるワインシュタインとは異なり、凛として美しく、カリスマ性を感じさせるリディア・ターは、弟子を自殺に追い込んだ一件を除いては、かなりグレーなラインをいっている。見方によっては、冤罪かもしれない…そんなことを思わせるような見せ方を本作では採用している。

また、ター自身にも罪の意識はあり、生活の些細な音が脳内でエコーのように鳴り、徐々に情緒不安定になっていく様は、昨今の有名人の社会的制裁にもダブって見えてきて、ならなかった。100%ターを悪者にしない、事実の曖昧性を見せるところに本作の奥深さが潜んでいる。

3. 栄華からの転落を救ったのも音楽

作中で紆余曲折を経て挫折を余儀なくされるターだが、逃げるように帰宅した自宅で聴いた音楽や指揮者の言葉に心動かされ、再生していく…。

希望のある終わりであったし、その手前での嘔吐のシーンはかなり象徴的な一幕だった。自分がこれまで行ってきた優越的地位の濫用に対する嫌悪感が浮き彫りとなり、それまでの嫌な自分を吐き出すことを印象付ける何気ないが非常に重要なシーンだったように思う。

8. ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3

End Game以降の失速が指摘されているマーベル作品。そんな中でも私は欠かさず追い続けているが、Gardians of the Galaxy Vol.3は文句なしの面白さだった。しかも世界最速上映の試写会チケットが手に入ったこともあり、意気揚々と劇場に足を運んだ。鑑賞後に「ネタバレしてはいけない内容」のスライドが投影されたことが、今でも印象に残っている。(例えば、グルートが"I am Groot."以外の言葉を発する、もネタバレ対象だった)

綺麗な言葉でまとめてしまうと、この作品は多様性の賛美を謳っているが、作中に箱舟が出てくることからも分かるように、あらゆる種を救済することが彼ら/彼女らの使命であるということが本作にして明らかとなる。だからこそ、タイトルがGardians of the Galaxyという宇宙規模の守護者を銘打っている。

多くのMCU作品が、End Gameまでを観ていることを前提に作られている。しかし、本作に限って言えばGotGシリーズさえ観ていれば楽しめるし、何なら観ていなくても単体作品として十分成立している。そこも好感が持てる作りであった。

7. Everything Everywhere All at Once

2023年アカデミー賞作品賞受賞作品。ポスターがいかにもカンフー映画っぽい様子だが、いくつもの並行世界(マルチバース)に移りながら家族の危機を救う、愛すべき作品であった。

本作は、中国系アメリカ人の一世・二世問題やレズビアン等の生き辛さをその底流に描きながら、MCU作品で散々描かれ尽くされたと思われていたマルチバースの新しい可能性を示してくれた点で興味深い作品だった。

作品は総じて情報量が多く、途中で頭がオーバーロードしそうになった、まさにその刹那、荒涼とした岩場でもはや岩石となった親子が、なぜかテレパシーで通じ合っているという屈指の名シーンに着地する。今冬大ヒットしているスパイ映画の「う〇こ」シーンを上回る絵的なインパクトは今でも忘れられない。

6. 正欲

朝井リョウ原作の映像化。原作の要素は残しながらも、2時間の作品に収めるために原作の一部分を彫り直して、新たな脚本として立ち上がっている点でも上手くいった作品であると思う。

非常に稀有な対象に欲情する人物を取り上げながら、私たちが無意識に振りかざす「正しさの暴力」を暴くような仕掛けをしている。ハリウッド作品が、いわゆる少数者(LGBTQ)や民族的マイノリティ問題を扱って久しい中、本作はそのように名前が付いているマイノリティ以外にも、世の中にはもっと多様で、社会通念上受容されることが困難な(時に法規範を乗り越えてしまう)性的指向があることを端緒に展開される。

ただ、それ以上に本作が深い階層まで降りて行っている感じるのは、仮に性的指向の面ではいわゆるストレートであったとしても、それでも時に感じる生き辛さというものが人間関係においてはついて回るものであるということ。そして、本当に微細なレベルでも日々私たちは何気ない言動を通して、加害者/被害者になっているという現実を突きつけてくることだ。

では、人間関係そのものを切断して、被害者であることを自認して慎ましく生きればよいか、というとそうではないということも突きつけてくる。何なら、被害者面することは簡単だ、と断罪さえする。

原作ではこの面がより色濃く出ているが、映画化にあたってはどちらかと言えば、世の中一般的な「正しさ」と少数者の「正しさ」が倒錯した形で現出している点が面白い。稲垣吾郎演ずる検察官の寺井は、世間的には最もまともな人間であるにも関わらず、本作においては最も不幸せそうに見える。他方で、少数者として連帯して生きていくことを誓い合った桐生夏月(新垣結衣)と長谷川佳道(磯村優斗)は、どんなに世間からは理解されないような境遇であるにも関わらず、理想的な人間同士の結びつきを得られているように見えるのだ。

原作は、さらにそこからもう一二段ほど踏み込んで、世間に蔓延る「正しさの暴力」を徹底的に糾弾している。映画から入った人は、脚本による足し算・引き算を楽しむこともできるため、ぜひ時間のある時に読み進めて欲しいものだ。

5. バービー

ありきたりなジェンダー論を超えて、アイデンティティの問題をしっかりとつかんでいる本作は、時間を置いて再鑑賞したいと思わせる説得力を多く持ち合わせていた。

Filmarksでの私の筆が、ここも饒舌になっているため、一部抜粋して振り返りたい。

1. 女らしさ、男らしさ、ではなく自分らしさ

本作のメッセージの一つは、社会によって押し付けられた役割からいかに自分を解放するかである。バービーランドでは、ケン(男の象徴)はバービーの付属品に過ぎず、除け者扱いをされている。

これは現実世界(人間界)に行って明らかにされるのだが、バービーを生み出した会社の男性重役たちが、男性中心の都合の良い社会を維持するための装置として、バービーランド(女性があらゆる面で活躍できる社会)を作り、そこにおけるケンを疎外したのである。

これはある種の陰謀論のように映るかもしれない。現実世界での露骨な女性差別は減っているが、非常に巧妙に、気付かれないように男性が甘い蜜を吸っている現実があり、バービー人形もそれに加担してしまっている、というかなりショックな描き方を作品全体を通じて行っている。(これを女性監督がやるから説得力がすごい)

作品では、二つの世界が極端に男性であることや女性であることに有利/不利を感じる社会であることを是正するような方向で動いていく。それも、生ぬるい結論ではなく、「私はバービー」、「私はケン」というそれ以上でもそれ以下でもないアイデンティティを再点検した上で、「では、バービーとケン、君たちはどう生きるのか?」という自己決定を観ている私たちに委ねるような話の持っていき方をしている。※言うまでもなく、バービーを観る前にジブリ最新作の「君たちはどう生きるか」を鑑賞しており、なんでも「君たちはどう生きるか」的に見える状態に陥っていた。

2. 「作者の死」(クリエイターの想像を超えること)

途中、ミステリアスな老婆が登場する。彼女はバービーを手助けするトリックスターのような存在であるのだが、最終的に彼女はバービー人形の産みの親であることが明らかにされる。

バービーがアイデンティティ問題と向き合う中で迎える彼女との対話は、私にとってはかなり印象的に映った。

バービー「私は人間になってもいいのか?」
生みの親「許可なんて取る必要はないのよ」

このシーンに私は、創造主は創造するまでが仕事。そこから先、被造物はさまざまな影響を受けながら自由に変化をして良いのだ、というメッセージのように受け取れた。

バービー自身は作中、変化を恐れている。しかし、世の中は常に変化するものである。バービーが、今の世の中に合ったバービーになるべく「今こそ創造主の想いを超えて」変化すべきことを示唆していたように思われた。

3. 「生きる」ことを称揚するラスト

本作の事の発端は、バービーが「死」を意識することから始まる。加えて、バービー人形には生殖器がないことから、生も死もないことが強調されている。

そこから一転、バービーが変化と死を受け入れるに至り、産婦人科を受けるところで着地する。この着地が何を意味するか…それは、「生きる」ことの儚さと尊さなのではないだろうかと作品全体を通じてヒシヒシと感じさせられた。バービーがヒール👠の形で足を立てているのは、「背伸びをしている」ことの暗喩であるようにも思われた。背伸びをせずに生きるのだ。そのような等身大の生き方が、作品のエールとなっているようにも感じられた。

4. 月

2016年に相模原の障害者施設で元職員により19名が殺害された事件を題材とした本作。「TAR/ター」とも重なるが、加害者である施設職員がどのような思考過程を経て、重度障害者の殺害に至ったのか。そのことを作品を通じて追体験すると、簡単に「殺人はいけない」とだけ無責任に言うことが憚られる。

もちろん、本作はこの元職員が殺人をしたことは当然である、といった主張をしているものではない。むしろ、なぜこの事件が起こってしまったかを加害者を取り巻く環境を見直すことで、再検証する試みとなっている。

人命に軽重はない。それがフランス革命以降、人類が不文律として掲げている人権概念に繋がっているが、人権思想を十全に果たして社会を機能させようとすると、どこかにしわ寄せがきてしまう。そのしわ寄せによって、精神的な隘路に追い込まれたのが、本作における青年さとくんである。

この作品を観てから、改めて相模原の事件の報道を見ていると、報道がいかに表面的な情報しか伝えていないことが分かる。私たちは、限界ギリギリの生活者や「社会の尻拭い」をさせられている人たちの境遇を全然理解できていない、という事実を突きつけられた気がした。

3. 怪物

素直に本作を観れば、一つの出来事に様々な立場の視点を入れて、そもそも「真実」であるとか「真相」といったものが無いということを突きつけられる作品だと言えるだろう。本作は「怪物」と銘打っているだけあって、私も怪物探しをしていた。しかし、怪物は見つからなかった。ただ、それぞれの視点から見れば確かに怪物は作り上げられていた。

子どもの立場に立たずに自己保身に走る学校やその先生を怪物と観る視点、モンスターペアレントと呼ぶに相応しい不気味な親とその子どもを怪物に観る視点、自分の子どもに呪いの言葉をかけ続ける親を怪物に観る子どもの視点…

みな、それぞれの怪物を見ているが、当事者すべての視点を提示されると途端に怪物が居なくなったような気さえした。

これは芥川龍之介の『藪の中』のようなものだろう。そんな風に中盤では思ったのだが、本作はさらに行き場の無くなった子どもたちが、どこに辿り着くことが幸せなのだろうか?そんなことまで考えさせる作品となっており、この作品自体が怪作だとまで思わされた。

2. 市子

本作は、あらゆる行動の背景に肯定的意図があったのではないか?という補助線を入れると、途端に何気ない市子の挙動、もとより「一時期は幸せな時もあった」川辺家の母子の行動に、説明ができるように丁寧に練られて作られていた。もっとも、現在の社会規範に照らして殺人が許される理由はない。ただ、安全地帯から社会規範を振りかざして、市子の言動を断罪することは思考停止と言わざるを得ないだろう。

市子は、何度も人との関係を結ぼうと試みる。しかし、いつもどこかで裏切られてしまった。そのような積み重ねがあったからこそ、自分が生き延びるためには手段を選ばなくなっていった。

市子として生き始めることの喜び。とりわけ、冒頭の婚姻届と着物のプレゼントに喜ぶ市子は、彼女目線に立てば本作の情緒的クライマックスであったのだろう。私たちは、冒頭に描かれた市子の感情の頂点の意味を、彼女の浮かばれないその生い立ちを追体験しながら徐々に理解していく。そんな作品であった。

奇しくも映画館の外は、忘年会シーズン。年越しを前に浮かれる都会の喧騒の只中を、ただただ作品の余韻に浸かりながら歩くことに、底知れぬ愛おしさが込み上げてきた。

1. 君たちはどう生きるか

前情報がほとんどなく、公開後もしばらくは断片的な情報提供に終始、という情報社会において珍しい情報統制であった。それだけでも稀有な鑑賞体験に寄与しているが、作り手の宮﨑駿本人でさえも物語の出来事の整合性を無視して作品を作っているところが、本作を結果的に混沌とさせた。

もっとも、その試みは思った以上には受け入れられているとは言えないのかもしれない。Filmarksをはじめとするスコアサイトの評価は思ったよりも低空飛行をしており、観る人を選ぶ作品となっている。そのはずで、私も4回みることになってしまった。ただ、4回観たとしても理解の程度は「分かったつもり」という域を出ず、観た人それぞれの感想を読むことが楽しさの一つとなっている。

私は純粋に本作を楽しんだのだと思う。だからこそ、こんな長文感想まで書いてしまったのだから。

作品理解にもっとも役立ったのは、こちらの雑誌の特集だ。本作に関わった人のインタビューが多数掲載されている他、プロデューサーである鈴木敏夫から観た本作の狙いをほとんど開陳して話している。

まとめ

他にも良い作品はたくさんあった。例えば、スーパーマリオの映画化は、鑑賞体験を損なわないような作り込みが垣間見えた。

具体的には、ゲームにおける反復性を作中に取り入れることである。RPGで遊んだことがある人は誰しも経験があるであろう難関ステージの出現に、それは端的に表れる。プレイヤーは困難なステージを試行錯誤しながら、コツを掴み、技を磨き、一段成長してステージを上がっていく。本作においては、TVゲームという遊びの面白さと本質がそこにあることを、作り手本人である宮本茂さん自身が踏まえて作っているように強く思われた。

また「ゴジラ-1.0」は、もし仮にゴジラが戦後復興の最中に現れていたら…もしかするとこのような「死にきれなかった人たち(復員兵)」が救われたのかもしれない。そのようなカタルシスを感じる作品に仕立てられており、想像以上に見入ってしまう作品だった。

今年の作品は、世相が色濃く反映されていると痛感させられた。
敢えて抽象的にまとめるなら「反省/内省を促す」作品群であったと思う。

  • 多数派にいることで思考停止に陥っていないか

  • 自分の正義を振りかざして、他者を知らずに傷つけている可能性に想像が及んでいるか

  • 相手の行動の背景にある肯定的意図を理解しようと努めているか

2024年は、趣向を変えて楽しい作品を取り上げたいと思いつつも、自分はこういう作品をつい手に取って見てしまうんだろうなと振り返った、そんな2023年最後の日であった。

大学院での一番の学びは「立ち止まる勇気」。変化の多い世の中だからこそ、変わらぬものを見通せる透徹さを身に着けたいものです。気付きの多い記事が書けるよう頑張ります。