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【ホスピス(緩和ケア病棟)で父を見送った体験】~あと1ヵ月早かったらと痛恨の後悔・・・

父が最期はホスピス(緩和ケア病棟)で逝ったことから、「どうやって探したの?」と聞かれることがあります。
つい最近も、母の友人のご主人が末期ガンと診断されたとのことで、母のところへ「話を聞きたい」と連絡がきました。

今はネットでいろいろな情報を得ることができますが、いざ家族のためにホスピスを探すとなると、「実際に経験した人の話」は多少なりとも参考になるかと思います。ずっと思い出すだけでつらかったのですが、父の7回忌を終えてようやく冷静に振り返ることができるようになりました。

わたしたち家族の限られた体験ではありますが、ホスピスで父を見送った体験を綴っておきます。

尚、当記事は、医学的な専門知識のない一般人とその家族の個人的な体験記に過ぎませんので、あくまで参考としてお読みいただければ幸いです。


1. ホスピスの情報を集める

父の場合、県内にある大学附属病院で受けていた抗がん剤の治療をやめたのが父が亡くなった年の1月。この時点で、積極的な治療としての主治医による治療は終えました。

その後は、母が地域で探してきた市内の医師による在宅医療を受けていました。父の容態は落ち着いていましたが、2月になって腹水がたまるようになりました。

当時わたし自身は東京に住んでいましたが、できる限り仕事のあと隣県にある実家へ行っていました。仕事をがんばって夕方6時過ぎに終えて、急いで実家へ向かい、夜7時半過ぎに到着。そんな日々でしたが、とにかく一生懸命でした。当時は仕事の責任も(自分のキャリアのなかでは)かなり重い時期でもあったので、今振り返っても、必死の日々だったな~と思います。

帰宅しても父は眠っていることが多かったです。
それでも昼間にひとりで看病している母と話して、その後に父の部屋へ行って様子を見たり、「今日も来たよ~」と声かけて少し話したり・・・。

あるとき数日あいて実家に帰宅した夜、わたしが帰宅すると玄関口に母が来て、「お父さんを見ても驚かないようにね・・・」と言いました。

父のベッドの横にいくと、数日で激やせして表情も変わってしまった父が横になっていました・・・。わたしは、「お父さん・・・」と声をかけるのが精一杯で、その後は何も言えませんでした。
父は、数日前に腹水を抜いて、その後に一気に体力が衰えて体重も減ってしまいました。また、左の肘のあたりの痛みにも苦しんでいました。

この頃になると、昼間ひとりで父の世話をしていた母にも疲れが出てきました。「このまま自宅で介護をどこまでできるかわからない」と思うようになって、妹と相談をして、もっと状況が悪くなったときに備えて「ホスピス(緩和ケア病棟)を探しておこう」ということになりました。


ホスピス探しに役立つサイト

いろいろな情報がありますが、下記の2つのサイトは、網羅的に情報をカバーしているサイトと思います。

国立がん研究センターがん情報サービス「がん診療連携拠点病院などを探す」
このサイトへ行ったあと、
・まず「都道府県で絞り込む」で場所を絞り込み、同時に
・「病院の特徴・名称で探す」の部分で「緩和ケア病棟のある病院」を選んで検索をかけます。

日本ホスピス緩和ケア協会
こちらは緩和ケアに関する情報が豊富です。病院を探すには、トップページのサイドバーにある「受けられる場所を探す」を進んで「ホスピス緩和ケア病棟」の青い丸印マークをクリックすると、日本地図のページへ移れるので、そこから該当の県を選びます。緩和ケア病棟をもつ協会の会員病院が表示されます。

2. ホスピスに連絡をとる

どのホスピス(緩和ケア病棟)の場合でも、まずは連絡をとる必要があります。

わたしたちの場合、県内の近いエリアで候補となり得るホスピスは数カ所ありましたが、同じ市内での選択肢はひとつしかなかったため、その1つのホスピスに絞って連絡を入れました。
母が自転車で行ける距離にあり、病院のひとつのフロアが緩和ケア病棟になっていました。

2月中旬に、わたしが病院へ電話をして面談の予約を入れました。すぐには面談できず、10日後くらいに予約を入れることができました。

助かったのは、「家族だけの面談も可能」だったことです。

ホスピスを考えるくらいの状況の場合、本人が病院へ行くだけでも大変です。多くのホスピスの場合、(有料ではありますが)本人は行かないで家族だけが病院と面談することを認めています。
(その後、わたしたちの父も、事前にホスピスでの診察は受けず、直接に入院することができました。)

3. ホスピスでの診察・面談へ行く

実家のある市内のホスピスへ面談の予約を入れた日、わたしは急な仕事で都合が悪くなり、その面談へ行けなくなってしまいました。

代わりに母に行ってもらいたかったのですが、連日の寒さで母は風邪をひいていたことや、母自身はこのまま父を在宅で介護したいと思っていたこともあって、結局その予約はキャンセルになりました。

このタイミングを逃したことで、結果として父のホスピス入院は1ヵ月あまり遅れることになってしまいました。

人生の優先順位を見誤らないで・・・

今になって考えれば、父のホスピス入院の面談予約を越えてまで重要な仕事って何だったのか?と不思議に思います。

当時の自分にとって、それなりに重要な状況があったとは思うのですが、どうしてそんなに仕事に優先順位を置いていたのか・・・と本当に悔やんでいます。

当時、転職して1年目で仕事をがんばっていたこともありますが、親の人生の最期の時期が迫っているという実感が持てないまま、人生における優先順位を間違えてしまった痛恨の経験です。

父の状況を振り返れば、あと1ヵ月早くにホスピスに入っていれば、痛みや苦しみが緩和された、穏やかな最期の日々が過ごせたのに・・・と思います。

同じような状況の方がいれば、わたしを反面教師にして、人生における本当に大切なことを見失わないでいてください。よく考えれば、大切なことって人生にそんなにありませんから・・・。

その後、父の容態は小康状態が続いてはいましたが、ほとんど食べなくなっていたので、どんどん痩せていきました。当時の日常については細かい記憶が曖昧なのですが、2つのことを鮮やかに覚えています。

腹水に苦しむ父を助けたくて

わたしは、父の腹水をどうにかできないものかと、夜中遅くまで必死で調べました。なんとかという漢方薬が効くらしいと調べて、なかなか手に入らないものを結構な価格で急ぎで入手しました。

でも、わたしが仕事へ行っている昼間に、父がそれを飲んだら父が気持ち悪くなって吐いてしまったと母に言われました。なんとか楽にしてあげたかったので、自分の無力が哀しかったです。

オレンジジュース

あるとき、母がオレンジジュースをすり下ろしたジュースを、父は「こんなに美味しいものはない」と本当に喜んだそうです。
その後もホスピスへ入院するまで、オレンジジュースは、父が口にできた数少ないものでした。

こんな感じで、父の容態は一進一退。父の自宅での闘病生活も終わりに近づいてきました。

今振り返って、何か一日一日がピーンとした緊張感のある時間だったように思います。

もっと知識と時間があったなら

父の闘病に関しては、ほとんど医師に言われるがままの標準治療を受けて、その後に為すすべがなくなって自宅へ戻り在宅治療。そして、(次章に記すように)ホスピスで最期を迎えました。

どちらが良い悪いということもないのですが、標準治療のほかに代替療法という選択肢があることも知りませんでした。あるいは高齢ということで積極的な治療をしないという選択もあったかもしれません。

父の場合、抗がん剤による副作用に苦しむ最晩年を過ごすことになってしまいました。わたしたち家族に、もう少しの知識があったら、「父に別の選択肢の存在を教えてあげることもできたかもしれない」と、ちょっと複雑な気持ちとして残っています。

4. ホスピス入棟への順番を待つ

さらに1ヵ月ほど過ぎて、母が「ホスピスへ連絡をとりたい」と言い出しました。

今度は、母がホスピスへ電話をしましたが、2月にわたしがホスピスへ連絡をとっていた記録が残っていたことが幸いしたらしく、スムースに予約&面談へ進むことができました。

ホスピスへの受入れ基準の詳細についてはわからないのですが、看病をしている家族の状況も勘案してくれるようでした。父の場合、「父がの体力が相当に弱っている」「母の疲れがたまってきている」ということで、待機リストに加えてもらうことになりました。


面談を終えて、ホスピスのベッドがあくまで待機状態となります。そのときによって待機の期間はまちまちになる、という説明を受けました。

ホスピスに入ることになるという話は、母が父にしたはずなのですが、そのときの詳細はよく知りません。父が母のことをとても心配して、「父自らがホスピス入院を希望した」と、あとになって母から聞きました。

父の場合は、1週間ほどでホスピスへ入院になりました。わたしは入院には立ち会いませんでしたが、介護用のタクシーに自宅に来てもらい、父は横たわったまま自宅をあとにしたそうです。


5. 富士山を見れないまま逝った父

ホスピスのお部屋は小さい個室でした。父は、ベッドに横になりながら、ガラ系の携帯メールで母とやり取りもできました。

父は、ホスピスへ入院してすぐに、父が尊敬していた「詩吟の先生を呼んでくれ」と言いました。人生おわりの数年間を、詩吟という最後の趣味で生きがいを見出していた父だったので、先生にお礼を言いたかったのかもしれません。その翌日に、父の詩吟の先生がホスピスへ面会に来てくれました。

短かったけど穏やかな時間

ホスピスに入ってからの父の時間は、穏やかな時間になりました。特に、ずっと続いていた肘の痛みに関して、痛みの緩和をしてもらったところ、かなり楽になったようです。

ホスピスでは、横になったまま入れる入浴設備があって、これが父は「とても気持ちいい」と喜んでいました。看護師さんも優しく、病棟全体に落ち着いた独特の雰囲気がありました。

父の体温はとても低くなっていて、病室で父と話をしながら父の足をさすってあげました。父の足が本当に冷たくて、わたしは涙が出てきそうになるのを抑えるのが必死でした。

それでも、まだ父があと1ヵ月くらい、きっとここで過ごしたくれるだろう・・・と思っていました。ゴールデンウィークが近づいていたので、父とゆっくり時間を過ごせるつもりでいました。

しかし、ホスピスに入院して、たった1週間で父は旅立ってしまいました。もう少しホスピスでの時間があると思っていましたが・・・。

病室から富士山が見えるのを楽しみにしていたのに、花曇りの日が続いて富士山を見れないまま逝きました。父が旅立った朝は雲ひとつない快晴で、旅立った父の魂が、病室からの美しい富士山を眺めていたと思いたいです・・・辺りは、白いハナミズキの花が満開になっていました。

まとめ

以上が、父をホスピスで見送ったときの体験です。それぞれの病人や家族の状況に応じての判断が必要になるとは思いますが、病状が相当に進んできたら、迷わず行動して遅くなりすぎないようにすることが大切だと学びました。そして、仕事は後からいくらでも挽回はできるので、遠慮せずに介護休暇をとって親の最期を全力でサポートすべきだったと思っています。

わたしたち家族の体験が、これからホスピスを探そうと考えている方の参考になれば幸いです。

(当記事は元ブログからの移管です。オリジナル公開日:2018年7月30日)


父の7回忌を終えて感じていることについては、以下の記事に書きました。


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