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現代シルクロード紀行


南新疆タリム盆地西部の探索行


J.N(元三井金属資源開発株式会社)

<プロローグ>

 中国新疆ウイグル自治区は、1955年カラマイ油田の発見があり、1985年以後、東西冷戦が解消に向かうなかで、重点開発地域に指定され、今、急速な開発ブームに沸いている。南新疆は、全新疆166万kmの凡そ2/3の広大な面積を占めるが、その中心は、タリム盆地不毛の大地、タクラマカン砂漠死の世界である。その上、この西域の地は、3方を自然の障壁-北に尖峰重塁して天を突く天山山脈、南に砂嵐荒れ狂う崑崙山脈、西は世界の尾根パミール高原カラコルム山脈で隔てられる。これらの山々からの唯一の恵みは山頂からの融雪水である。
 紀元前1世紀、匈奴と漢の抗争に翻弄された小国ローランの命運、流砂に埋もれたさまよえる湖ロブノール等々の物語は、歴史と秘境へのロマンを呼び起こす。西域の主役は、アーリア人種トルコ系のウイグル人である。タクラマカンは、ウイグル語で埋もれた大地を意味する。
 タリム盆地の周縁部には、紀元前より、崑崙山脈の北麓に沿う西域南道、天山山脈の南麓に沿う西域北道(天山南路)が通じ、高度なオアシス文化が栄えていた。多くの城郭都市国家が、興亡を繰り返していた。これらの国々は、東西南北からの外圧と外敵の侵入に悩まされ続けたが、この地が、紀元前後より、東西文化の交流交易路-シルクロードとして、文明の歴史に重要な役割を果たすことになる。

<シルクロード略史>

 シルクロードは、漢と匈奴の激しい抗争の中で(BC2〜AD2)、その骨格が形成された。張騫の西域遠征(BC2)、班超の西域攻略(AD1)がこの時代のトピックである。この時代に、仏教及びギリシャ美術の影響を受けた華麗なガンダーラ仏教美術やガラス器が東方へ伝えられ、日本へも伝播した。西方へは多量の絹が運ばれた。絹は等重量の黄金と交換されたという。隊商を組み、中継貿易の役割を担ったのはイラン系のソグド人であった。なお、4世紀、西欧世界に大混乱を巻き起こしたゲルマン民族の大移動は、フン族の西進に起因するが、フン族は漢の時代に西方へ移動した北匈奴の末裔であろうと言われている。
 シルクロードが、本格的な隊商路として完成したのは、漢族の西域支配が確立した唐代(AD7〜9)である。法顕の仏国記(AD5初)、玄弉の大唐西域記(AD7)によれば、この時代、カシガル、ホータンなど南彊各所のオアシス都市には、仏教の大伽藍が立ち並び、1万を越す僧侶が集う仏教王国が栄えていた。
 紀元751年、タラス河畔の戦で、唐軍がアッバース朝イスラム軍に大敗を喫した。これを契機に、イスラム勢力の東方への浸透が始まる。トルコ系の突厥(AD7)、ウイグル(AD8)が強大となり、西進したトルコ系のカラハン朝(AD10〜11)がイスラム化する。10〜12世紀の東アジアは、契丹(モンゴル系)、西夏(チベット系)、女真(ツングース系)が次々に勃興し、弱肉強食の時代となった。西域にはイスラム教が浸透し、仏教文化は壊滅し、仏教旧跡の破壊が進んだ。
 13世紀、モンゴル帝国が成立し、西域はチャガタイ汗国(AD13〜14)、次いでチムール帝国(AD15)の支配下となる。元朝(AD13〜14)では、ウイグル人は、色目人として、軍事、財政面で登用された。マルコ・ポーロの東方見聞録は13世紀後半の記録である。この時代、製紙法(AD8)、火薬、羅針盤、印刷術(AD12)などの重要な技術が、中国から西欧に伝えられた。西方からは、イスラムの科学技術-天文学、数学、医学などが移入した。

 明代(AD14〜16)には、鄭和の南海遠征(AD15初)が行われ、シルクロード-オアシスロードは、その役割を海路に明け渡す。南海路は、アラブ人により唐代末から発達し、中国の織物、漆器、陶磁器と西方の香料が交易した。西域では、サマルカンド出身で、マホメッドの後裔と称するホージャ家のカシガル汗国(AD16〜17)が権勢を張った。清代(AD17〜19)には、兆恵による西域制圧が試みられた(AD18)。香妃の物語は、この時代のエピソードである。

 19世紀に入ると、ロシアやイギリスなど列強の勢力が進出する中で、西域は不安定となり、紛争が多発し、近代化から取り残されて行く。東西冷戦が終結した今、シルクロードは、東西を繋ぐ幹線陸橋として、又、資源開発の基幹線として、21世紀に甦ろうとしている。

<ウルムチからカシガル・アトシヘ>


 5月10日夕刻、ウルムチからカシガルへ向かう。我々南疆調査班のメンバーは、中国人技師兼通訳2名を含めて、計5名である。ウルムチからは、新疆地質勘査局の楊氏が加わった。
 ウルムチ空港で、異様な集団に乗り合わせた。大きなポリタンクをぶら下げている。彼等はメッカ巡礼の帰りで、家族や知人に分配するため、イスラムの聖水を持ち帰ったのだという。新疆は中国ではあるが、イスラム圏である。公共の標示は、すべて漢字とアラビア文字の併記である(写真1)。

写真1


 飛行機はロシア製のイリューシン86、マークはヴォルガ航空である。乗客の急増に対処して急遽リースしたらしい。機内は狭いが120座席である。ウルムチ発18:40、カシガル着20:30。カシガルでは、キズラスキルギス自治州ウチャ県政府の技師、孫氏が出迎え、直ちにアトシの克州賓館に案内してくれた。時間標示は北京時間である。北京-カシガルの経度差は40°なので、約3時間の時差がある。カシガル空港は未だ明るく、西方の空は、黒い雲塊の間が紅色に染まっていた。
 中国は、原則と建て前論の社会だと言われている。ホテルの女性の出勤時間は、9時、朝食は、10時である。原則と本音をうまく使い分けている。原則を貫けば、後はよきに計らえと言うわけだ。恐らく、複雑で大きな組織を動かし、広大な国土と大勢の民衆をうまく統治するための知恵であろう。
 中国は中央集権国家である。中央政府の下に、省・自治区があり、その下に、地区自治州、更に、県・特区があり、最下位が、区・市郷鎮のピラミッド組織である。各レベルで、行政党の重層関係があり、更に、中央の各部、各委員会、各公司の関係が網目状に入り組んでいる。中国ビジネスは危険が一杯と言われるが、中国が変革期にあることに加えて、こうした複雑な網目状のピラミッド組織に起因する行き違いが多いことが一因かも知れない。
 新疆ウイグル自治区の人口構成は、本格的な開発投資が始まる1950年以前は、ウイグル族が、総人口400万人の78%を占めていた。漢族は30万人足らずで、7%弱の比率であった。1950年〜1960年代、漢族の人口は、大量移住により、600万人に激増し、総人口1630万人の38%を占めるまでになった。ちなみに、ウイグル族の比率は47%強である。他に、カザフ族、回族、蒙古族、キルギス族などの少数民族、計47民族が住んでいる。

<パミール高原とブロンコ銅鉱山>


 11日早朝、軍のロシア型ジープ2台で、パミール高原にあるブロンコ銅鉱山へ向かった。ポプラ並木のオアシスと砂礫の砂漠ーゴビを抜け、パミール高原の谷間を進む。景観は一変し、道は険しく、断崖がそそり立つ。カラコルム山脈を越え、パキスタンへ抜けるハイウエイで、良く整備された舗装道路であるが、数箇所で岩壁が崩壊しており、河床の巨礫の間を縫って進む。途中、国境警備隊の検問所があり、通行許可証とパスポートのチェックを受ける。カシガルより約170km走ると、急に視界が開け、広大な河床原が広がる。今までの濁流は清水に変わる。氷河湖の周辺に草原が広がる。ここではラクダとロバが住民の足である(写真2)。
 山の様子が一変した。パミール高原の山々は砂と砂礫に覆われている。面白い現象が目に映った。砂が山腹をかけ登り、尾根を越えているように見える。多分、

写真2


錯覚だろうが、細砂の多くは、遠くパミールの彼方から、風で運ばれたのではなかろうか。
 ブロンコ銅鉱山の選鉱場は、氷河湖の向こうの砂礫の丘に立っている。標高は3,500m、気象の変化が激しく、ひっきりなしに強風と雪が舞う。石炭ストーブで暖を取ったが、体の芯まで冷え込んでしまい、ほとんど眠れない。翌朝、標高4,200mの坑口へ向かう。坑口の手前で車が2台共動かなくなり、徒歩で坑口へたどり着く。ブロンコ銅鉱山は、原生界中の改造型鉱床である。1978年の開山で、休山と再開を繰り返したが、現在の生産は、150t/d、品位Cu3.5%である。精鉱は州政府所属のアトシ銅製錬所へ送鉱している。しかし、鉱量が残り少なく、あと半年で閉山する予定だという。職員は全員が単身、従業員は全員が出稼ぎのパートで完全出来高払いという。
 ブロンコ銅鉱山では大歓迎を受けた。この山奥で、新鮮なブラックタイガーをご馳走になろうとは思いもよらぬ事であった。外国人が訪れるのは、数年に一度あるかないかの稀な事らしい。孫氏が面白い話しをした。
「我々の給与は、僅か600元です。皆同じです。」
「ところが、此処の鉱山長は、3万元のボーナスを手に入れた。業績がすごく良かったのです。」
探鉱費や起業費の償却はどうなっているのだろう。それに閉山費用は。恐らく別勘定ではないかと思う。品位がCu3.5%なら、操業費の直接コストをまかなって余りあると思う。
 12日午後、地熱班2名と合流するため、カラクリ湖へ向かう。カラクリ湖は、標高4,100m、青く澄んだ湖水を湛えている。前方にムスタグ峰(7,546m)、後方にコングル峰(7,719m)の雪山が湖を挟んで向かい合っている。ムスタグ峰は壮麗な姿で女性的であり、コングル峰は岩塊累重した山塊で男性的である。カラクリ湖は、国際登山キャンプ場に指定され、シーズンには、数百人の登山家、旅行客で賑わい、百を越すフェルトのテントーパオが立ち並ぶという(写真3)。本道路を南へ遡れば、カラコルム山脈を越え、パキスタンに至る。仏教美術の故郷ガンダーラは、すぐそこである。

写真3


 昨年、3人の日本人が、コングル登山で遭難死亡したという。カラクリ湖から眺めるコングル峰は、一見簡単に登れそうな感じがするが、5,000mを越せば酸素は急に欠乏する。無謀な行動はやめて欲しいというのが孫氏のコメントであった。
 ここで問題が発生した。地熱班のジープのダイナモが故障し、バッテリーが上がってしまった。対応策は2台のジープのバッテリーを交換し、片肺走行でアトシまで辿り着こうというものであった。ダイナモの点検に1時間、ネジが錆び付いておりバッテリーの交換に1時間を費やした。エンストの度に、皆で車を後押しした。途中、酔っ払いトラックに何度も追い立てられ、怖い思いをした。アトシの克州賓館に帰り着いたのは夜半の2時を廻っていた。

<カンスー-鉱業都市->


 カンスーは、アトシの西方120kmにあるウチャ県の鉱業都市である。1950年代、ロシア主導で建設された。石炭火力発電所、セメント工場、製鉄所(現在中止)がある。最盛時には3,000人のロシア人が駐在した。住民は、ウイグル人、キルギス人が多い。住居は日干しレンガ造りで質素だが、ウイグルの女性は華やかで、特に少女は色とりどりに着飾って毎日が祭日のようである。なお、県都ウチャは、1985年8月の大地震で壊滅し、現在の街は、廃墟の上に再建された。
 通訳のアリムは、勇猛果敢で心優しい、誇高きウイグル人である。彼の父親はカンスーの鉄鉱山の鉱山長で、2才の時まで、カンスーのロシア人宿舎で過ごしたと両親から聞いている。彼が生まれた家は簡単に見付かった。ロシア人宿舎は、レンガ造り2階建の事務所兼宿舎で一棟しかない。アリムは、30余年ぶりに、生まれ故郷の生家を確認し、ニコニコ顔で写真におさまった。
 カンスーでは、花園銅鉱床とホシブラック鉛・亜鉛鉱山を見学した。花園銅鉱床は、第三紀の砂岩中の酸化銅鉱の沈殿銅鉱床であり、鉱徴と鉱化層準は広範囲に分布している。中国は、リーチング法により小規模な開発を考えている。ホシブラック鉛・亜鉛鉱山は、ロシアが開発・操業したが、ロシア撤収後、廃坑になった。裸の立坑が残っているが、切羽跡が地表まで陥没を起こしている。ロシアは高品位鉛鉱のみを選別し、中央アジア方面へ送鉱した。地表には、大きな結晶の方鉛鉱が散在していた。この鉱床は古生代デボン紀〜石炭紀の砂岩中の鉱床であるが、鉱床の状況も成因も良く解っていない。鉱化帯は広範囲に分布する。
 14日、キズラスキリギス自治州政府関係者とミーテングを行った。副知事の王氏は、各種の経済指標を示しながら、キリギス州が、いかに開発余地が大きいかと熱弁を振るった。王氏の論旨は:
「キリギス州には、未使用の土地がある。水もある。8月は融雪の洪水期で、水の利用率は低い。農業は盛んである。石油・石炭もあり、鉱物資源は豊富であり、開発余地は大きい。しかし、問題は資金である。資金の90%を中央に頼っており、幾つもの開発計画が、中央で順番待ちとなっている。」
中国側の開発への期待がいかに大きいか、改めて思い知らされた。

<イスラム都市交易都市カシガル>


 15日午後、ホータンからのジープを待つ間、カシガル(喀什)市内を見学した。カシガルの街は、カシガル川の中流域に発達した広大なオアシスの中にある。郊外は農園地帯で、ポプラの並木、市内では柳や楡の並木が美しい。
 カシガルは、イスラム教とバザールの町である。街の中央広場に、新彊最大のイスラム寺院(モスク)、エイティガール寺院がある。寺院の入口は、黄を基調としたタイル張りで、周囲の緑とよく調和して、暖かな雰囲気を醸し出す。内部は樹木の庭園である。入口から中央へ向かう方向がメッカの方向である。この方向に縦横十文字に並んで数百人のイスラム教徒が、一斉に礼拝(ナダーム)する姿は圧巻である。ナダームを終えて引き上げる男の顔・顔・顔。いずれも堂々たる体躯に、額に深い皺を刻んでいる。砂漠と苦闘し、アラーの神に我身を預けた姿がにじみ出ている(写真4)。

写真4


写真5



 カシガルのバザールは2千年の歴史がある。バザールは市内各所にある。宝石箱や水差しなどアラブ固有の手工業品、装飾に凝ったイスラム帽(ドッパ)、絨毯に絹織物、琵琶に似た手製の楽器(ジッタル)、カラフルな衣料、日本製のスカーフからブラウスまで、世界中の物産が並んでいる。しかし、人々の乗物と運搬手段は、未だ馬車とロバ車である(写真5)。
 観光の目玉として売り出しの中の香妃墓は、カシガルの東郊外のポプラの大樹の森の中にある。濃青色のアラベスクタイルを張りつめた山門をくぐると、左手に礼拝所があり、右手が緑のタイルを張り詰めた壮大な香妃墓である。今、大々的に修復中である(写真6)。

写真6



 香妃墓は、マホメットの後裔と称し、17世紀、カシガルを中心に権勢を誇ったホージャ家の墓廟である。広い廟内には、一族の遺体をいれた大小様々な72の柩が並んでいる。柩は色違いだが、同じ文様を施している。偶像崇拝を禁ずるイスラム教では、このような壮大な墓所は珍しいそうだ。イスラムでは、裸で生まれてきたので、裸でアラーの神のもとへ帰ると考え、墓所は質素である。この墓廟は、仏教の大迦藍の影響を受けているのかも知れない。
 香妃はホージャ家の娘で、その一生については様々な伝承・伝説があり、本当のところはよく分からない。香妃の称号は、墓廟の文書によれば、「香妃は回部の王妃なり。姿色美し。生れて体に異香あり、漁沐を仮ならず。国人、之を号して香妃と日う。」とある。清の乾隆帝(AD18)に寵愛されたが、寵愛を拒み続けたとも、復讐の志を変えなかったとも、最後は絞殺されたとも自刃したとも伝えられる。ともあれ、香妃の墓は、河北省清東陵にもあり、香妃は複数実在した可能性も考えられる。自動車も列車もない時代に、北京まで陸路5,000kmを拉致されたことからみても、香妃は、勝ち気で、魅力的なウイグルの美女であったことは間違いない。肖像画で見ると、香妃は丸顔で目鼻立ちの整った美女である。後日、ホータンで、香妃の面影を宿す女性に巡り会ったので後述したい。
 イスラム教のウイグル人は、豚肉はタブーであるが、漢人は豚肉が大好物である。毎日5回、定時に繰り返すナーダムや毎年1回30日間も続く断食(ラマザーン)の習慣は漢人には耐えられないだろう。清代には、ウイグル族と漢族の隔離策が取られた。回城と漢城の二つの街を造り、同一市内の場合は二つのブロックに分け、互いに住み分けた。カシガルは前者の例で、喀付は回城、疎勒は漢城である。ヤルカンドは後者の例で、回城と漢城が同じ市内に同居している。なお、カシガル地区の人口は300万人で、ウイグル族が70%を占める。カシガル市の人口は24万人である。

ぼなんざ 1996.7

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