見出し画像

”評価”とは一体なんなのか(後編その7)

さて、前回まで長きになわたり、評価が以下に理不尽であるかを述べてきました。今回からはは、そんな評価制度がなぜ報酬を左右するようになったのか、さらにはそれがもたらす不幸について考察していきます。


どのように分配するか

会社が従業員などにお金を支払うために、売上を上げる、資金を調達するなどの方法があります。資金量は企業によって異なりますが、いずれにしてそれ有限であり無尽蔵ではない。給与も含めた報酬も、この有限量の中から分配されるのはご存じの通り。

分配される量は、企業の運営方針などによって決まります。有限なものを分配するわけですから、割り当てられる量がすべて平等なことはありません。
報酬に関しても同様で、すべての従業員が一律平等の金額ということはありません。

報酬の分配方法の仕組みは様々にあります。その中でも特に対立軸であげられるのが、年功序列(年功主義)と成果主義です。

年功序列と終身雇用

年功序列は、評価パラメーターを年齢、学歴、勤続年数などの、その人の過去の連続性と組織との関係性を見る評価制度です。勤続年数が長いほど、仕事へのノウハウや社風への理解度が深く、組織への貢献度が高いという前提で成立します。

この分配方法は、かつて日本企業の多くが採用していたのはご存じの通り。このシステムが定着したのは、高度経済成長期といわれています。高度経済成長の時代は日本企業の業績が急拡大した時期。それに伴い人材の確保が急務でした。また農村部では職を求める若者が大勢おり、需要と供給がマッチした結果、集団就職という仕組みが生まれました。そういった状況下で、労働者の将来の生活の安定にもメリットがある人事制度として年功序列が広まった、とされています。

年功序列は基本的に勤務年数が長くなるに従いほぼ自動的に昇給・昇進するシステムです。もう一つの「終身雇用」とセットで運用されることで、労働者は、ある意味では労働に従事していれば、生活が保障されるため、経済成長著しい日本の発展を長く支えました。

成果主義の導入

成果主義が年功序列と対比されてよく語られるのは、この制度が成果、つまり仕事の結果を主軸として評価が決定する制度だからです。年功序列は組織内外の人脈や学閥などウェットな関係性を軸にしていたため、職務遂行能力に問題のある人間が権力を握ってしまうという欠点がありました。

安定した時代では、個人の能力よりも企業という船の能力が重要でしたので、多少能力に欠ける人間が組織にいたとしても、大きな問題にはならなかったのもかもしれません。しかし、1990年にバブル経済が崩壊すると、日本の景気が急激に悪化し、経済の拡大フェーズが終了しました。そこからはコストカットや事業縮小などが、多くの企業で加速します。企業の経営において、人件費というのはバカにならないものです。
ですが、日本は法律によって労働者の権利が強く、給与減や解雇が厳しく制限されていました。

成果主義導入の失敗

そのために多くの企業は成果主義を導入します。表向きの理由は、能力のある人材に多くの権限を与えて業績を上げることでしたが、その試みは大失敗に終わります。成功したと言われている企業は、ある意味で日本企業らしかぬ風土をバブル以前から持っていた企業ばかりでした。

そもそも、成果主義はジョブディスクリプションが無いと成り立ちません。職務のポジション名、目的、責任、内容と範囲、求められるスキルや経験、資格など事細かに設定する、すなわち職務内容に基づいて、雇用契約が結ばれます。事細かに職務内容を設定するのは、そうでないと適切な成果指標を設定できないからです。それによって支払われる基本報酬は「職給」となります。それは日本の「職給」とは似て非なるものでした。

当時の日本企業の経営陣がそういった現状との乖離に気づかなかったはずはありませんから、成果主義の導入はレイオフできない苦肉の策としての「報酬を出さない(上げない)理由づくりのため」だったと考えられます。

分配する量が少なくなったので、致し方なく成果主義を導入したのですね。

ゆがんだ形で残った評価制度

成果主義の導入は失敗しましたが、多くの企業は年功序列に完全に戻ることはできませんでした。そのため、成果主義のうち成果を評価する部分だけが残り、年功序列との混ざりあい、いびつな形で残ります。

事細かくパラメーター化されている職務内容・ジョブディスクリプションが無い状態で生き残った評価制度。ではこの評価制度は一体何を評価しているのか?

それはわかりません

いや、適当なことを言ってるわけではなくて、本当にわかりません。職務内容に応じたパラメーターが無い中での評価制度は、現代では人の成長というお題目を掲げた謎の制度に成り果てています。それは組織(経営)に都合の良い人材を作り出そうという極めて作為的な思惑さえ感じます。

評価してあげたから、その人は活躍しているのでしょうか?
評価があったから、その人は成長したのでしょうか?
そもそも、評価者は他人を「活躍した/成長した」と裁定できるほど、本当に他者よりも優秀で完成された人物なのでしょうか?

現代の日本の企業組織で行われているほとんどの評価制度は、カリキュラムの存在しない通知表に過ぎないのでは?とも感じます。

次回は、それでも評価したいのはなぜか?に迫っていこうと思います。

それじゃ、また👋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?