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平和(2010年)

ジョン・レノン、ミュージアムに行った時に思ったけれども人類は本当の意味での平和は成し得ないと思う。
理想的な考えでは成し得たくて、現実的な考えでは成し得ない。

牛は生きたまま鎖に繋がれ逆さに吊るし上げられ、首を鉈のような包丁で切られ血抜きをされ苦しみながら死んでいき、その後に解体される。
豚は刺激を与えて死ぬと肉の成分が変わるようで、電気ショックでショック死した後に解体される。(迷信を信じてしまったところの誤ったやり方だったかも?)
鶏は互いが喧嘩をしないようにとヒヨコの時に、クチバシを切断する機械で作業的にクチバシを切断されていく。
全部、以前に興味を抱いた時に動画で観ました。それで人間に置き換えて色々と想像してみました。動画と言えば犬猫の殺処分の動画も以前に観ました。

人間も、もともとは動物であるからとか色々な理由で動物を食べず菜食主義というのもありますが、考えようによっては人間が感受出来ないだけであって野菜や果物だって痛みを感じているかも知れない?
野菜や穀物の立場を考えると監禁されたり強制労働されたりして、挙句の果てには殺されて食べられてしまう。
そうなると野菜の自由はどうなるのだろう?野菜の自由は誰が保障するの?
果物だって皮を剥かれバラバラに解体され、時にはおろし台で体をおろされる。人間に置き換えてみると物凄く痛そうだ。
こういう事を考えていくと何も食べられなくなる。だから欲した分は残さず食べる、という事で落ち着いたけれども。
汚い話しになるけれども排泄物が陽の光で栄養素を持ち、それを食べる事での循環が可能になったとしたら他の生物を一切殺さずに済み平和的になるかも知れない。

動物や野菜や果物の事まで考えるべきではないかも知れないけれども、人類の繁栄には他の生物の犠牲がつきもので、また繁栄の為に争いも繰り返され、文明の進歩に比例して犠牲や争いの度合いは高まっていると思う。
結局のところ人間にとっての平和とは自分や自分が大切に想う対象が不幸になったり危害を加えられなければ、犠牲になる対象が存在していたり争いが起きていても気にしないところがあり。
そんな中で誤解や偏見や差別やすれ違いが起き、それが増して一定期間毎に戦争を繰り返す。
そういったものを取り除くには多大な時間なども必要であり、その時間をかけるには非現実的であり、現実的には難しい事のように思え、歴史が物語っているように一定期間毎に同じような事を繰り返すのが人類なのかも知れない。

本当の意味での平和を考えると人類が滅びるのが地球にとって平和だと思う。
地球にとっていてもいなくてもどちらでもいい生物。どちらかと言うといない方が好ましい生物。
その生物が存在している意義は何なのだろう?人類の存在意義は?


意義なくば 殺してしまえ 人類を(織田信長Ver)
意義なくば 持たせてみよう 人類に(羽柴秀吉Ver)
意義なくば 持つまで待とう 人類を(徳川家康Ver)

織田信長って苛烈な印象がありますが実際は繊細で優しい面もあったみたいですね。
義の上杉謙信もマイルールが強くて、それから外れる者を手打ちにしたりもしていますし。

銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーみたいな人がいいな。
「永遠ならざる平和の為に」


2010年12月14日 記

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